帝国年代記〜催涙雨〜
大海原を往く
「……いるんだろう? そこに」
ひとしきりガサガサ、と音を立てていた草がぱっくりと割れた。
「おかえり、可愛い僕の子。……大きくなったね」
そこから姿を現したのは、一人の老人だった。
赤みがかった長い薄紫の髪と、大きな紅石が嵌まったサークレットがひときわ目を引くその老人は、目を細めて笑った。
「やれ、これは珍しい。君が友達を連れてくるなんて、雪でも降るかな?」
「あのな……」
「ふふふ、冗談さ。だって君ってば、いつでも帰っておいでって言ってあるのに、ちっとも帰ってきてくれないんだから。ちょっとくらい、意地悪したって罰は当たらないだろう? 小さいころはあんなに甘ったれで泣き虫で、寂しがりで僕がいないと……」
「レグルス!」
「だって本当のことじゃないか」
渋い顔をしたジェイスンは、額に手を当てて深くため息をついた。
「な、なんだかものすごい発言を聞いたような気がするが……」
呆然とつぶやくリチャードに鋭い視線を浴びせるジェイスン。
老人はひとしきり笑うと、アメジストたちに目をやった。
「ああ、失礼。ジェイスンに会うのはひさしぶりだったものだから、ついつい。……僕はレグルス。一応、彼の育ての親」
「レグルス……まさか、『森の賢者』?」
「まあ、そう呼ばれることもあるね。外の人間たちが勝手にそう呼んでいるだけだけど」
笑みを湛えながら答えるレグルス。
そういえば、とアメジストは思う。
彼――ジェイスンの、一般人としてはかけ離れた知識を不思議に思ったことがあった。
いつだったか、ジェイスンとシーシアスのたわいもない会話を聞いていたときのこと。
――星ってさ、昼間はどこに行っちゃってんだろ。
――いきなり何を言い出すかと思えば……
――だって、夜はあんなにキラキラ光ってるのに、お日さまが昇ったらみーんな隠れちゃうんだぜ?
――別に、どこにも隠れてなんかないぞ。
――えー!? だって、どっこにもないぜ?
――それは――
『太陽の光が星の輝きをかき消しているだけ』
一般の学校では、せいぜい読み書きを教えるくらいだ。天文学など、知っているのは貴族の中でだって一握りのはず。
だが、『森の賢者』レグルスが彼の養い親だとすれば――不思議でも、なんでもない。
『森の賢者』は、知らぬことは何もないと言われているのだから。
改めて、彼について大して知らないのだと思い知らされる。クロウが警戒するのも、無理のないことなのかもしれない……アメジストは目を閉じ、深く息をついた。
泊まって行くといい、という彼の言葉に甘え(なにしろ、ここまで休む暇さえなかったのだ)、彼の住処へと歩を進める。
その場所はアメジストたちの想像の外であった。
いや、人の立ち入ることのほとんどない聖域なのだから、ある意味では正しいのだが……
「……ただの洞窟……に見えるんだが」
「ちょっとリチャード! そんな本当のこと言ったらだめじゃない」
「……あ、あのね……」
なんと言ったらいいか分からずに、アメジストは頭を抱えた。
そんな漫才(?)を見せられたレグルスは腹を抱えて笑っている。
「いや、正直な子たちだ。気に入ったよ」
「す、すみません……」
「謝ることじゃないよ。変に穿った考えを持っているよりはよほど好感が持てる。……さ、遠慮しないで入って」
促され、アメジストはお邪魔します、とひとこと挨拶して中に足を踏み入れた。
普通の家で言うならば玄関ホールに当たるその場所は、思ったよりも明るく、それなりの高さがあった。
真正面には、複雑に絡み合った木の根が見える。かなりの樹齢とおぼしき木の根で、かなり太い。根っこから先に視線を巡らせば、どうも空間になっているようだ。天井は、おそらく強度を保つためだろう、部分部分に人の手が加わっていることが分かる。
左右を見渡せば、やはり木の根が伝っていて、木の根と根の間が部屋になっている。
簡単に言えば、この住処は巨大な木の根元に出来た空間なのだ。
奥の方には、書斎があった。さすがに『賢者』というだけあって、立派なものだ。
目を輝かせたサジタリウスは早速レグルスに許可を取り、嬉々として本を読み始める。
「ねえお姫様。お話、いいかな?」
「話……ですか?」
唐突なレグルスの申し出に、アメジストは目を白黒させた。
「そう。お話。できれば、二人きりで」
「二人きり、ですか……」
ジェシカが少し、渋い顔をする。
「大丈夫、そんなに遠くには行かないよ。大声を出したら聞こえる範囲だから」
そう言って笑う老人の誘いに、アメジストは応じることにした。
「分かりました、ご一緒いたしますわ」
「陛下!」
「そんなに心配しなくても大丈夫よジェシカ。私もう、子どもではないのよ?」
「ですが……」
なおも渋るジェシカに、レグルスは笑って見せた。
「ここの魔物は外ほど凶暴じゃない。お姫様ひとり守るくらいは出来るさ」
「……分かりました。本当に、気をつけてくださいね?」
心配そうなジェシカに再度大丈夫、と言って二人は木の住処を出た。
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