帝国年代記〜催涙雨〜

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  大海原を往く  

 朝もやに煙る世界。

 そこここにある、鮮やかな緑から滴る朝露のかすかな音が耳をかすめる。

 アメジストは今、そんな静寂の中にいた。

 その静寂が、ふと途切れた。

「……来てくれたのね」
 途切れた音の方を見て、彼女は微笑んだ。
「俺がお前との約束を破ると思うのか?」
「そうね、愚問だったわ。あなたはいつだって私との約束は破らないもの。ね、クロウ」
 ふふ、と小声で笑って先を促す。一つ頷いて、クロウは本題に入った。
「……奴らの本拠地は、モーベルムじゃない」
「えっ」
「基本モーベルムにいるのは間違いない。だが、本拠地にしては手薄すぎるんだ。それに時折……」
 クロウは懐から地図を取り出して広げ、モーベルムに当たる位置を指した。
 彼の指が地図の上を滑る。
「こっちの方角に船を出している。違う方向には良質な漁場だってあるのに、わざわざ魚を採りに行ってるとも思えないし、この先に人の住む町もないはずだ……俺たちが認識している限り、という前提だが」
「この海域はまだよくわかっていないのよね?」
 彼女の問いに、クロウは頷いた。
「ああ。誰も行ったことがないからな。ひょっとしたら知られていない島か何かがあるかもしれない……すまない、俺の力不足だ」
「そんなことないわ。とってもありがたいと思ってるのよ」
 アメジストが笑ってみせると、クロウの目がゆらいだ。
「……頼むから、無茶だけはしてくれるなよ」
 アメジストの頭を両手で挟み、軽く額を合わせる。
「善処するわ」
 サークレット越しに伝わる熱が、とても心地よかった。

……その光景を、見ていた人物がいた。

「……………………」
 金の髪に緑の目の彼は自嘲気味に唇をゆがめて、音もなくその場から姿を消した。
 そのことに、アメジストはおろかクロウでさえ、全く気づかなかったのである。



 クロウと別れた後、情報を頭の中で整理しながらアメジストは宿の扉に手をかける。
 刹那。その扉が内側に開いた。
「きゃ!」
 勢いあまって中に……飛び込む前に何かにぶつかった。
「いたたた……鼻打った……」
「大丈夫ですか」
「だ、大丈夫だけれど……ある意味……すごいタイミングよね……」
 中から扉を開けたのはジェイスンだった。
 彼はそのままアメジストを招き入れ、扉を閉める。
「ああ、『陛下がいない』ってジェシカが騒ぎ出したんで、探しに行こうかと。……こんな朝早く、どこに行ってたんです」
「ジェシカったら、私もう子どもじゃないのに。……顔を洗いに行っていただけよ」
「本当ですか?」
 予想もしなかった彼の言葉に、アメジストは顔を上げた。
「……どういう意味?」
 アメジストの視線は、まっすぐにジェイスンの緑色の目を見据える。
 その視線から逃げるように、ジェイスンはさっと目をそらした。
「……いえ。なんとなくそう思っただけですから、お気になさらず」
 そういわれても気にならないはずがない。アメジストは追求しようとしたが、それは別の声に遮られた。
「陛下!」
 だっと駆け寄ってくるのはジェシカだ。リチャードとサジタリウスもいる。
「どこに行ってらっしゃったんですか、もー心配したんですよ」
「顔を洗いに行っていただけよ! 過保護すぎなのよジェシカは」
「せめて一言声をかけてからにしてください! 何かあったら本当どうしようかと」
「まあまあ、いいじゃありませんかジェシカ。陛下もこうしてご無事だったんですし」
 サジタリウスがジェシカをなだめれば、またも扉がバタンと開く。
 扉のところに立つのは一人の青年。彼はぐるりと周りを見渡し、声をあげる。
「フォスター卿はいらっしゃいますでしょうか?」
 場が一瞬静まり返る。
「……あ、私のことですねえ。一瞬誰のことかと思っちゃいましたよ」
「サジ様……」
 がっくりと脱力するアメジストの脇をすりぬけ、サジタリウスは青年から手紙を受け取る。
「だって、『フォスター卿』だなんて、格式ばって呼ばれること少ないですし、ね」
 どちらにせよ、緊急の用事なのだろう。サジタリウスは手紙を開いた。
「どなたからですか?」
「うちの奥様からですよ、陛下」
 読み進めていくうちに、サジタリウスが驚いたように目を見開く。
「サジ様、奥様になにかあったのですか? このごろ体調が思わしくなかったようですけれど……」
「なにかあった、といえば、あったのでしょうが……ええと、なんと言ったらいいのか……」
 彼にしては珍しく、戸惑っているようだ。
「私と彼女の間に、その……子ども、が、授かったらしいです……」
 アメジストはジェシカと二人、顔を見合わせた。
「お、おめでとうございますサジ様!」
「ありがとうございます……はは、なんか実感ないですねえ……」
 曖昧な笑みを浮かべるサジタリウスに、ジェイスンがボソっとつぶやいた。
「……というか、あんな顔してやるこたしっかりやってんだな……」
「こらジェイスン、下品だぞ!」
 ばしっと彼の頭をはたき、リチャードは話題をすりかえた。
「サジタリウス、奥方のところに帰らなくてもいいのか? ようやく授かった子どもだろう? 私は男だからわからないが、その、奥方もいろいろ不安であるだろうし……」
 幸い、先ほどのジェイスンの言葉は女性たちには聞こえなかったようだ。
「そうだわ! サジ様、私たちは大丈夫ですから、今からでもお戻りになってください」
 リチャードの言葉を受けて、アメジストがサジタリウスに帰ることを勧める。だが彼は首を振った。
「いえいえ、最後までご一緒しますよ。なにも今すぐ子どもが生まれるわけでもありませんし」
「ですが……」
「それに、途中であなたを置いて帰ってきた、なんてことをしたら絶対怒られます。かえって彼女の身体とお腹の子どもに悪いですよ」
「……そ、そういうものですか……?」
「そういうものですよ。すくなくとも私たちの間ではね。さあ、そろそろ準備して出発しましょうか」
 腑に落ちない表情のアメジストをせかして、話を終わらせる。
 そしてサジタリウスは何事もなかったかのように、割り当てられた自分の部屋へを戻っていき、残された彼女たちもそれにならったのだった。

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