帝国年代記〜催涙雨〜
大海原を往く
アバロンを出てから数刻後、ようやくレオンブリッジにたどり着いた。
改めて見てみれば、本当に大きな橋だ。この橋のおかげで、ただの草原に近かった周りの一帯も、活気が出るようになった、いや、渡し舟は商売上がったりだ、などと町人たちがおしゃべりする。
「しかし久しぶりだな、このバレンヌを出るってのも」
抜けるような青空を見上げ、ジェイスンがひとりごちた。
この橋を渡って少し歩けば、いよいよバレンヌの領域を出ることになる。
「ああ、ジェイスンはバレンヌ出身じゃないもんね。私はこの国から出たことがなくってね。来る前はどんなところにいたの?」
ジェシカの問いにジェイスンはこちらに向き直り、少し困った顔をした。
「……どこ、と言われても……旅芸人の一座と一緒に、いろいろな国回ってたから……」
「あら、じゃあジェイスンて何か芸ができるの? やってみてやってみて!」
「……用心棒としていただけなんだけどな……」
キラキラした笑顔で見あげるジェシカにさらに困った顔をするジェイスン。
二人の会話を聞きながら、アメジストはぼうっと物思いにふけっていた。
この国……バレンヌ領から出るのは初めてだった。……皇帝になってからは。
不意に思い出す、一面の緑。
難攻不落の場所にある、堅牢な城。
そして……
「陛下?」
……決してこちらを見てはくれなかった、あの人。
「陛下!」
「痛い!」
突然強く髪を引っ張られて、むりやり思考の海から引きずり戻される。
「何するのよ!」
「何って……そのまま行くと落ちますよ」
「…………」
足元に目をやれば、一歩にも満たない距離の先、吸い込まれそうなほどの空と水面が見えた。
考え事をして歩くうちに、端に寄っていってしまっていたらしい。
「……ちょ、ちょっと考え事していただけよ」
「そうですか。考え事も結構ですが、もう少し周りを良く見てもらわないと困りますね」
「分かったわよ!……まったく意地が悪いんだから」
くやしまぎれの言葉に他の三人がくすくすと笑う。
「でも、そうね。気をつけるわ」
ふるふると頭を振って、感傷を捨て去る。
今回相手をするのは、武装商船団なのだ。生半可な覚悟では、うまくいくものもいかなくなってしまうかもしれない。
「ですが危険と分かってて、なんで皇帝直々に行く必要があるんです? 向こうの事情に詳しい使者でも立てたらよかったんじゃないですか」
「私は……どちらかというと、この国のことよりも、外の国のことを勉強していたから……」
アメジストは言葉を濁した。
「それに、今の状況でへたに使者を出したら、全面戦争になってしまう可能性があるわ。……私、あまり武力行使はしたくない。だから私が行くの」
「ご立派です、陛下」
すかさずリチャードが彼女を褒めたたえる。その言葉に、アメジストがさっと目を伏せた。
立派なんかじゃない。ただ、私は――
「ああ、そろそろ夕刻になりますね。宿を探しましょうか」
のんびりとかかった声にはっと我に返る。
サジタリウスが気を遣ってくれたのだ、とすぐに分かった。
さっき気をつけると言ったばかりなのに、と軽く自己嫌悪に陥る。
「……そうですね。暗くなる前に、宿を確保しましょう」
アメジストの声にジェシカとリチャードは顔を見合わせた。
努めて普通を装った声だったが、どこか自虐的な響きを感じたからだ。
一瞬目だけで会話した後、ジェシカがさっとアメジストによりそった。
「陛下、後で絵のモデルになってくださいます?……といっても、スケッチ程度ですけど」
「えっ、本当? 嬉しいわ」
さっきまでの自己嫌悪はどこへやら、アメジストがにっこり笑う。
そう、ジェシカは昔から絵が上手かった。小さい頃、一緒にお絵かきをしていたときも、一番はいつも彼女だった。
「じゃあ、宿に着いたらいい場所を探さなきゃ。あと小物とか服も……」
「いや、それは別にいいわよ……」
傍目にもはっきり分かるほどうきうきしだしたジェシカに、アメジストは釘を刺す。
彼女に任せると、とんでもないことになりかねないからだ。……いろいろな意味で。
そこから宿を取るまで、女子二人による(男子はついていけなかった)ファッション談義に花が咲いたのだった。
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