帝国年代記〜催涙雨〜

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  不協和音のソナタ  

 次の日の早朝。
 目を覚ましたソフィアが身支度を整えていたところ、侍女たちのものすごい悲鳴が聞こえてきた。
「な、何事!?」
 どの城も同じだろうが、部屋の壁は厚く、多少の物音は通さないようになっている。それなのにはっきりと聞き取れたということは、かなりの音量のはずだ。
 ソフィア付きの侍女が足早に様子を伺いに部屋を出ていき、しばらくして蒼白な顔で戻ってきた。
「何があったのです?」
「そ、その、ソフィア王女……あの、姫様、アバロンの姫様が……!」
 その侍女は慎ましくとても有能で、ソフィアと歳が近いこともあいまって親交が深かった。そしてたった一人で遠い異国へ来なければならなかったアメジストのことを、影ながらではあったが、ソフィア同様とても気にかけていた。
 その侍女が、真っ青な顔であわてている。ますますただ事ではない。
「姫がどうかしたの?」
「ああ、ソフィア王女、私の口からはとても……! どうか、一緒に来ていただき、ご覧ください」
「分かったわ。姫はお部屋ね?」
「は、はい」
 ソフィアは侍女を連れ、アメジストの部屋へと足早に向かう。
「姫、姫? わたくしです、ソフィアです。入りますよ」
 扉を叩いて声をかけ、扉を開ける。
 中にはただおろおろするアメジスト付きの侍女たちがいた。
「あなたたち、何をしているのです? 姫はどうなさったの?」
「あ、そ、ソフィア王女……! 姫様は、はい、寝室にいらっしゃいますが、あの、その……」
 寝室へ続く扉は開け放たれている。その側には手のつけられることのなかった食事がぽつんとそのまま置かれていた。
「姫、いったいどうなさったので……!」
 寝室に入ったソフィアは言葉を失った。
「ああ、ソフィア王女……すみません、朝からお騒がせしてしまって……」
 アメジストがはさみを手に、今にも泣き出しそうな、困った顔をしている。
 けれどソフィアが絶句したのは、アメジストの表情のせいではなかった。
 床に散らばる、大量の黒い糸の塊。
 それは美しく艶があって、まるで蛇のように床にとぐろを巻いていた。
「すみません、お手を煩わせるつもりはなかったのです。ただ、私一人ではうまく切れなくて――」
「と、……当然ですわ! そのはさみは、髪を切るためのものではありません!」
「すみません、すみません! 本当に、ソフィア王女たちのお手を煩わせるつもりは――」
 泣き出しそうなくしゃくしゃの顔で、肩口からざんばらに切られた髪を振り乱しながら、アメジストは謝り続ける。
「……わたくしは、怒っているわけではありませんのよ。それは、お分かりいただけますかしら」
 優しく言うと、アメジストは小さくはい、と答えた。
「とにかくその髪を、何とかしなければなりませんわね。あなたたち、ご苦労ですけれどはさみと、水を張ったたらいと手ぬぐい、それから肩にかける大きめの布を持ってきてちょうだい」
「はい、ソフィア王女」
 指示をもらって幾分ほっとしたのだろう、侍女たちが部屋から散っていく。
「ねえ、姫。こんなにも美しい黒髪ですのに、どうして切ってしまわれたのです?」
「…………」
 おとなしく鏡台の前に座った少女は、うつむいている。
「お答えになりたくなければ、お答えしなくても構いませんのよ。ただ、わたくしは本当にもったいないと思ったのですわ」
「ソフィア王女、お持ちいたしました」
 侍女たちがソフィアの命じたものを持って戻ってきた。
「ご苦労様。あなたたちは下がってよくてよ」
「しかし……」
 侍女たちは反論したが、ソフィアがもう一度下がりなさい、と厳命すると頭を下げ、部屋を出て行った。
 くるりとアメジストの方を向き、ソフィアは笑顔を作った。
「さあ、髪を整えましょうね。大丈夫ですわ、わたくしが前よりもっと可愛くして差し上げます」
 ソフィアは手早くアメジストの肩に布をかけ、髪を湿らせはさみを小刻みに動かす。
「……髪は、」
 少女がぽつりとつぶやいた。
「長い髪は、美女の条件だと、聞きました」
「ええ、そうですわ。この国では髪の美しさや長さも、女の美しさとして数えられるのです。ですからこの国の女はみな髪を伸ばし、手入れを欠かさないのですわ」
 はさみを動かしながら、ソフィアは答える。
「……私は、他の人から美女だなんて思われなくてもいい。トーマ王子ではなく、ゲオルグ王子に見てもらえるならば、美女でなくてもいい……そう、思ったのです」
 鏡越しに見える、泣きそうな顔。
 ――やはり、この小さな少女をここまで追い詰めたのは、お兄様……。
 兄の気持ちも分からなくはない。アメジストは妹である自分よりも若い、どころか幼いと言ってもいい。恋愛対象として見られないというのも、理解できないことではない。
 だがそれは同時に、恋するアメジストの心をあんな風に踏みにじってもいいという免罪符にはならないのだ。
「ええ。わたくしも恋する女ですから、お気持ちは良く分かりますわ」
 ――こんなにもかわいらしく、いじらしい子に。無意識とはいえ、どうしてあんなひどい仕打ちができるのでしょう。
 力なく視線を落としていたアメジストが、驚いたように鏡越しにソフィアを見た。
「ソフィア王女、も……?」
「ええ。想う相手こそ違いますが、わたくしたちは同じ『恋する女』なのです。姫。わたくしはあなたの味方ですわ」
 くしゃり、とアメジストの顔が泣きそうにゆがんだ。
 泣くか、と想ったが、少女は泣かなかった。
 ――なんて、強い子なの。
 ソフィアは驚嘆した。少女は確か、まだ十一歳になったばかりのはずだ。それなのに泣きもせず、ひどい仕打ちをしたゲオルグを責めもせず、ただ自分が足らないのだと上を見続ける。
「……さあ、できましたわ。御覧なさいな、とても可愛くなっていますわよ」
 肩のやや上で綺麗に切りそろえた黒髪。毛先を内側に軽く巻いて、かわいらしさを強調する。耳にかければ邪魔にもならないだろう。
「ありがとうございます、ソフィア王女……」
 アメジストはほんの少しだけ、笑った。


 切った髪に合うようなドレスを選び、ほんの少し化粧をして。
 そうしてソフィアとアメジストは、ゲオルグの見送りのために謁見の間の前に来た。
「うわあ! ど、どうしたのですか姫様、その髪!」
 先に到着していたトーマが素っ頓狂な声を上げる。
「これ、トーマ。声が大きくてよ」
「あっ、ごめんなさい……で、でもでも、とっても可愛いです、姫様」
「ありがとうございます、トーマ王子……」
 トーマの手放しの賞賛に、アメジストははにかんだ。
「えっと、あの。……お体の具合は、もう大丈夫なのですか?」
「はい。ご心配をおかけしてしまい、申し訳ありません。もう、大丈夫です」
「それはよ、……ようございました」
 若干噛みつつも、トーマはアメジストをいたわる声をかける。
 ――トーマでさえできることなのに、どうしてお兄様にはできないのかしら。
 ソフィアはそっとため息をついた。
「トーマ、お兄様はまだなのね?」
「はい。まだ父上とお話されています」
「良かった。間に合いましたわね、姫」
「はい……」
 少し頬を染めて、アメジストはうなずいた。
 そのとき、謁見の間の扉が開き、件のゲオルグが姿を現した。
「兄上!」
 飛びついたトーマを、ゲオルグはおっと、と声を上げて受け止め、笑顔を浮かべた。
「見送ってくれるのか? トーマ」
「はい! 姉上と姫様も一緒です」
 トーマは二人がゲオルグに見えるように体をずらした。
 ゲオルグの視線がアメジストを通り過ぎ、ソフィアに留まる。
「ソフィア。苦労をかけるが私が留守の間、頼んだぞ」
「心得ておりますわ。……お兄様、他にお言葉をかけなくてはいけない方が、いらっしゃるのではなくて?」
 咎めるようなソフィアの声に、ゲオルグの視線がアメジストを捉えた。
「あ、あの、ゲオルグ王子……その……」
「ああ……昨日はあの後、体調を崩されたのだったな。もう大丈夫なのですか」
「あ、は、はい……ご心配をおかけして、申し訳ありませんでした」
「お元気になられたのなら、良かった」
 違う、そうではないのだと、ソフィアは声を上げそうになった。
 だがこれはゲオルグが自分で気づかねば意味がない。同じように声を上げようとしたトーマを、ソフィアは手で制した。
「あの、ゲオルグ王子……あの、その……」
 勇気を振り絞ったのだろう、若干髪を気にしながら、アメジストはさらに言葉を紡ごうとする。
「姫。昨日も申し上げましたが、私は忙しいのです。すぐにネラックに戻らねばならない。あなたのために時間を割いている暇などないのです」
 渋面を作って、ゲオルグはそう吐き捨てた。
 いや、ゲオルグに吐き捨てた、という意識はなかっただろう。しかしトーマとソフィアには、吐き捨てたとしか聞こえなかった。
 そしてその瞬間、アメジストの顔から表情という類のものがすべて抜け落ちるのを、ソフィアは見てしまった。
「兄上! いくらお忙しいとはいえ、そのおっしゃりようはあんまりです! 姫様は、姫様は……兄上、あなたのために」
「トーマ、話はまた今度な。ソフィア、頼んだぞ」
 トーマの叫びも途中でさえぎり、ゲオルグは振り返りもせず歩いていく。
「お兄様!」
 ソフィアの引き止める声にも足を止めず、ゲオルグはそのままダグラスから去っていった。
「…………」
 しん、とその場が静まり返る。
「あ、あの……姫様……?」
 恐る恐るトーマが声をかけると、アメジストはゆっくりと視線をトーマに移し、笑った。
 ――こんなときにまで、笑って……!
 明らかに無理をした笑顔だ。それでもこの小さな少女は、笑ってみせた。大の大人だって泣いても、わめいても、取り乱したっておかしくはないのに。
 もし自分が想い人にこんな仕打ちを受けたら、間違いなく発狂して泣き叫ぶだろう。それなのに。
「あの、その、兄上は、その……か、髪に気づかなかったのではなく……きっと、恥ずかしかっただけなんです! そうだ、きっとそう……」
「ご心配いただかなくても、大丈夫です。……髪など、また伸びますわ」
 必死に平静を保った声だった。だが、それはひどく。
 ひどく疲れた、声だった。
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