帝国年代記〜催涙雨〜

モドル | モクジ

  不協和音のソナタ  

 それからアメジストは、『期待する』ということを一切、やめてしまったようだった。
 毎日のように同じことを書いてはいないかしら、ゲオルグ王子はちゃんと目を通してくださっているかしら、と頬を染めて一生懸命書いていた手紙も、ぱったりと書くのをやめてしまった。
 ゲオルグの誕生日に少しでも喜んでもらおうと、悩みに悩んで、自分の持っていた少ない小遣いをはたいて買った白い手巾。少しでも心が伝わるようにと一生懸命、指を刺しながらも、ソフィアに教わって施していた花の刺繍も完成間近のまま。ゲオルグの誕生日が過ぎ去った今では捨て置かれたように埃をかぶっている。
 口さがない娘たちの悪口にも、悔しそうな顔をしなくなった。
 その代わり、ただ仮面をつけたような笑顔で「早く大人になりたい」とさかんに口にするようになった。
 そして少しの時間も惜しみ、以前にもまして真剣にカンバーランドのことを学んだ。ただよりよい王妃となるためだけに、少女は全力を注いでいるようだった。
「姫……あなたはそれでいいのですか?」
 数月の間それを見ていたソフィアはとうとう耐え切れずに、アメジストに問いかける。
 アメジストはふわりと首をかしげた。なぜそんなことを聞くのか、と、とても不思議そうに。
「なにが、ですか? ソフィア王女」
 仮面のような笑顔で。
 それは、まだ十一かそこらの少女がする表情ではなかった。
「ですから……姫、あなたはまだお若いのです。それなのに、すべてをあきらめてしまったかのように、わたくしには思えて」
「いいえ」
 ソフィアの言葉を、アメジストが途中でさえぎった。
 今までそんなことはなかった。アメジストは必ず相手の話をすべて聞いてから、自分の考えを述べる。そういう少女だった。
「いいえ。何もあきらめてなどいません。……私の役目は、義務は、ゲオルグ王子との子を生すこと。ただそれだけです。それが、バレンヌのため、カンバーランドのためにもなります」
 そして、アメジストはまた「早く大人になりたい」と言った。
「早く『大人の女』という称号を身につけて、『ゲオルグ王子の妻』という称号を身につけて。……子を、生す。ゲオルグ王子にとって、両方の国にとって、私は、それ以外の価値など、ないのですから」
 違う、と叫びたかった。だが、とても言えなかった。
 言えば、ではなぜ髪を切ったことにすら気づいてもらえなかったのか、と問われるのが目に見えている。そして、それに答えるすべをソフィアは持っていないのだ。
 ――わたくしやトーマがいくらあなたは大切な方なのだと言っても、おそらく今は通じませんわね。でも……!
「すみません、勉強がまだ残っているのです。これで失礼いたしますね」
 仮面のような笑顔のまま、アメジストは優雅に礼をし、部屋へ戻っていく。
 ――これではいけない。
 このままでは、完全に、修復不可能なまでに、彼女の心が、壊れる。
 ソフィアは何度も兄に訴えた。せめて手紙を出してやってほしい、少しでも少女のことを気にかけている、ということを示してほしいと。しかし兄からの返答は判で押したように「足りない分は、お前とトーマが気にかけてやれば済むことだ」という言葉のみ。この分では毎日のように届いていたアメジストからの手紙が届かなくなっていることも、気づいていない。下手をすると今まで届いていた分の封すら開けていないかもしれない。
 ソフィアは、兄が好きだ。もちろん男性としてみているわけではなく、家族として。それはトーマも、兄も同じだろう。
 忙しくとも、兄は自分たちをちゃんと気にかけてくれている。それは分かっている。共にいる時間が少なくとも、会話があまりなくとも、分かる。
 だがそれは、少なくとも数年の間、家族として一緒に育ったという『前提』があるからだ。だからこそ言葉にしてもらわなくとも、しぐさや表情、口調で分かるのだ。けれどアメジストにはその『前提』がない。それこそ神でもあるまいし、ソフィアやトーマに接する同じような態度で、分かってもらえるはずがないのだ。
 ――このままではいけない。
 気だけが急いて、何一つ現状を好転できないまま、また数月が過ぎ去ったころ。幸か不幸か、アバロンにいるアメジストの母が病に倒れたとの知らせが来た。
 さすがにひどく動揺したアメジストに、ソフィアはいったんアバロンに戻るように伝えた。
「ですが、私の義務は……」
「姫。こんなことは申し上げたくないのですけれど。もし姫が戻らずにお母様が亡くなられてしまったら、姫は必ず後悔しますわ。ですから一度お帰りになって、お母様を見舞って差し上げなさい。大丈夫。お母様がお元気になられたら、また戻ってくればいいのですわ」
 アメジストの手をとってそう言うと、アメジストはすがるようにソフィアを見つめた。
「私……戻ってきても、いいのですか?」
 久しくつけたままだった仮面が剥がれて、歳相応の少女の顔が現れる。不安そうな、その表情。
 そうだ。この子はまだたったの十一歳なのだ。
「もちろんですわ。お母様がお元気になられて、姫がこの国に戻っていらっしゃるのを、わたくしずっと待っていましてよ」
 アメジストは感極まったように、こくこくとうなずいた。


 しかしそうしてアバロンに帰ったアメジストは、二度とカンバーランドへ戻ることはなかった。
 ソフィアとトーマがアメジストとゲオルグの婚約破棄を知ったのは、すでに婚約破棄が履行された後だった。
 アメジストからの、ソフィアとトーマ宛の手紙。

『ゲオルグ王子との婚約は、破棄になりました。私はあまりに幼すぎ、両国の国交の使者としては意味がないとみなされましたので、もうカンバーランドへは戻れません。ソフィア王女、トーマ王子には大変良くしていただいて、感謝を表する次第です。当然の義務すら果たせずにバレンヌへ戻ることになった私を、どうかお許しください。それから、無価値な私のことなど、最初から存在しなかったのだと思い、忘れてしまってください』

 その手紙を読んだ瞬間、ソフィアの頭の中で盛大に何かが切れる音がした。
 はしたないなど考える暇もなく、ドレスのすそをからげものすごい形相で、父のいる執務室へと全力で走る。一緒に手紙を読んでいた、トーマを置き去りにして。
「お父様!」
 ノックもせず音高く扉を開け放ち、絶叫するソフィアに目を丸くしていたのは、父だけではなかった。
「お父様! お兄様も……! いったい、いったいどういうことなのですか! 説明してください!」
「なんだ、ソフィア? そんなにあわてて」
「はしたない。いったい何をそんなに興奮しておるのじゃ」
「なんだも何もありませんわ! 姫との婚約が破棄されたと聞きましたけれど、本当なのですか!」
 ソフィアの形相に戸惑いつつも、ハロルドはうなずいた。
「何じゃ、もう知っておったか。帝国から正式に破棄の申し出があったのでな、受けた。そもそも姫とゲオルグでは歳も離れておったからな。その代わり、向こうの皇族の男子と歳の近い娘を――」
「そんなことはどうでもいいのですわ!」
 ソフィアはキッとゲオルグをにらみつけた。ようやく追いついてきたトーマが息を切らしながらも、やはりゲオルグをにらむ。
「お兄様。お兄様は、それでよろしいのですか」
「いいも何も。……父上が、国同士が判断したことだ、仕方のないことだろう? 友好の使者としては別の娘がバレンヌへ行く。何がおかしいというのだ?」
 空いた場所には、別のものを据える。まるでチェスの駒のように。ソフィアはゲオルグの答えに愕然とした。
 ――この人たちは。女を駒としか、子を産む道具だとしか見ていない。
 トーマが泣きながら、ゲオルグを拳で叩く。
「そんな! 姫様は、兄上を、兄上を――! 兄上に、破棄を止めて欲しいって思っていたはずなのに!」

 ――いいこと、トーマ。あなたはお父様のようになってはいけませんよ。ソフィア姫、よろしく頼みますわね。

 義母――つまりトーマの生母だが、彼女が言っていたことがようやく実感として身にしみる。
 ある程度は仕方のないことなのだろう。国を治めるということは、個人の感情だけでどうにかなるものではないことは、ソフィアにだって分かっている。だが、いくらなんでもこれはあんまりなのではないか。
 ――幼い姫を約束で縛り付けてその気にさせておいて、いざとなればもういらぬと放り出すなんて!
「分かりましたわ。では、わたくしがバレンヌへ嫁ぐことになりますわね」
 低い声で、ソフィアはきっぱりと言い放った。その言葉にハロルドとゲオルグが驚いた顔をし、ゲオルグを拳でたたき続けていたトーマも驚いて手を止め、ソフィアを振り返る。
「帝国へはわたくしが嫁ぎます。先方の皇子様は確か、お兄様と同じくらいのお歳でしたわね。であれば、身分的にも年齢的にも、王女であるわたくしが一番ふさわしいはずですわ」
「いや、ソフィア。お前には想い人がいるだろう。婚約もそろそろ整うというのに」
「ええ、おっしゃるとおりですわ。けれど、そんなことあなた方には何の問題にもならないのでしょう? ですからわたくしがバレンヌへ嫁ぎ、子を生します。立派にお役目を果たして見せますわ。申し訳ありませんが、ポールにはお兄様からそうお伝えくださいませ」
 ゲオルグをにらみつけて吐き捨てると、ゲオルグは声を荒げた。
「だめだ! 愛する人と引き裂かれ別の男の子を産むなど、お前が不幸になるだけではないか! そんなことは許さない、国としても、兄としてもだ!」
「姫だって同じだ、とどうしてお分かりにならないのですか!」
 ソフィアも負けずに声を荒げる。
「お兄様。あなたは姫がどれだけあなたに心を砕き、少しでもあなたにふさわしい女性になろうと精一杯努力していらしたことを、あなたは分かっていらっしゃらないわ。口さがない娘たちの悪口にも泣かずに、ただお兄様だけを見続けていた。お兄様、あなたに見てもらえるならば美女でなくてもいいと髪まで切って……トーマですら気づいたその変化に、お兄様、あなたはちっとも、気づいていなかったでしょう!」
「髪を……?」
 呆然とゲオルグがつぶやく。やはり気づいていなかったのだ。
 ソフィアは父、ハロルドに向き直る。
「さあお父様。わたくしに『帝国へ嫁げ』とご命令を。国のため、たった一言ですもの。簡単なことですわね?」
「できぬ。嫁ぐ娘はすでに決まっておる」
「では、その娘にはわたくしが話をつけます。どの娘ですか」
 ひたと父の目を見据えながら問うと、ハロルドは渋面を作り怒鳴りつけた。
「できぬと言っておろう! ゲオルグ、ソフィアとトーマを連れて下がれ!」
「は、はい」
 ゲオルグは二人を無理やり執務室から引きずり出し、扉を閉める。
「離してくださいな! まだお話は終わっておりません!」
「いい加減にしろソフィア! すでに面通しも終わっているのだ、先方が混乱するだろう! それにお前がバレンヌへ行くとなったら、私はポールになんと言って詫びればいいのだ!」
「そんなことはお兄様が考えることですわ!……わたくしはあれだけお願いしましたわね、姫を気にかけていることを示して欲しいと! それなのにお兄様、あなたは……! 姫は幼いゆえ、お兄様が恋愛感情を持てないというのも分からないことではありません。ですがだからといって、姫の心を踏みにじってもいいという免罪符にはなりませんわ! 自分の状況を分かってもらう努力も怠り、ただ忙しいと放置するならば、最初から優しくなどしなければいいものを!」
 ――そうすれば姫もあくまで『義務』として、恋愛感情を除外して、結婚を考えられたのでしょうに。
 ソフィアは思い切りゲオルグの手を跳ね除けた。そしてもう一度、扉に手をかける。
「だからいけないと言っているだろう!……誰か! 誰かおらんか!」
 ゲオルグのあわてた声に、すぐに兵士が集まってくる。
「ソフィアを部屋へ! 今日は部屋から出してはならん、分かったな!」
「はっ」
「こら、あなたたち、離しなさい! 王女であるわたくしの命令ですわよ!」
 しかし兵士たちはゲオルグの命令を優先し、ソフィアを半ば引きずるようにして連れて行く。さすがにソフィアも男性、しかも複数に囲まれては抜け出すのは無理だ。金切り声を上げながらずるずると引きずられていく。
「兄上。ぼくも、姉上と同じ気持ちです」
 今まで黙って事の成り行きを見ていたトーマが、キッとゲオルグをにらんだ。
「兄上はずるい。そりゃあ、ぼくはまだ子どもで、政治のことなんかさっぱり分かりません。でもだからといって人の心をもてあそんでもいいなんて到底、思えません。兄上は、兄上と父上は、姫様の気持ちを利用したんだ!」
 言葉を飾らない分だけ、トーマの言葉はゲオルグに思い切り突き刺さった。
「……お前のような子どもに、何が分かる」
「分かりません。分かりたくもない! 人の心をもてあそぶことが大人になるということなら、ぼくは大人になんかならない!」
 そう吐き捨ててトーマはくるりときびすを返し、自分の部屋ではなくソフィアの部屋の方へ走っていった。


 結局バレンヌへは予定通りの娘が嫁ぎ、ソフィアとポールの婚約は整った。
 だがその代わり、ソフィアは父ハロルドから約束をもぎ取った。
 カンバーランドの有力な町のひとつ、フォーファー。そこへ移り住み、財政を立て直す。これが女であるソフィアが政治にかかわる権利をもらうための条件だった。
「お父様、お兄様。みてらっしゃい。女はただの駒でも、子を産むためだけの道具でもなくてよ。わたくしはお父様やお兄様とは違う、わたくしなりのやり方で、この国を富ませてみせますわ」
 そうしてソフィアはあっという間に財政を立て直し、一年ほどでフォーファーを束ねる長となった。
 最初こそ強い反発があったが、ソフィアの華麗な手腕にやがて不満は収まっていった。



 しょんぼりしてしまったトーマが退室した後、ソフィアはふっと視線を机の引き出しに向けた。
 引き出しの中には、完成間近のまま埃をかぶっていた、刺繍を施した白い手巾がある。
 ――トーマにはああ言ったけれど。おそらく、姫はもう、お兄様を見てはいない。
 アメジストの態度がそれを物語っていた。すべてを過去のもの、としているわけではないのだろうけれど、彼女の目は、態度は、数年前のそれとはまったく異なっていた。むしろ、それが向けられていたのは。
 ――きっとあの方なのね。姫を『人間』に戻してくださったのは。
 思い浮かぶのは、アメジストの側にそっと寄り添っていた、茶に近い金色の髪に緑色の目の男性。
 格好こそ派手でぎょっとしたけれど、きっと家族や近しい人間以外で、初めて色眼鏡を通さずに『アメジスト』という一人の女性を見てくれたのが、彼なのだ。だからアメジストは、人間としての心を取り戻せた。
 そしてきっと、二人は。
 彼はごく控えめに、けれど必要なときには必ず手を差し伸べていた。いつかの馬車の中のやりとりも、ソフィアは驚いたのだ。人前で涙をあまり見せることがなかったアメジストが、彼の前では素直に泣いたことを。
 きちんと聞いたわけではないので二人の気持ちは分からないが、今の時点では、兄にとってかなり不利だろうということはソフィアにも分かる。
 あの手巾の刺繍は、完成の日の目を見ることができるのか。
 ――さて、お兄様。相手はずいぶんと手ごわいようですわ。あなたはあのお方に勝てるのかしら? お手並み拝見、と参りましょうか。
 ソフィアはくすくす、と楽しそうに笑った。
モドル | モクジ

-Powered by 小説HTMLの小人さん-