帝国年代記〜催涙雨〜

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  不協和音のソナタ  

 海を隔てた、遠い異国からやってきたその少女は、とても愛らしい少女だった。
 見事な艶の、美しい、腰まで伸びたまっすぐな黒髪。最高級の象牙のような、滑らかな白い肌。ぱっちりとして大きな、それでいて神秘的な紫色の目を縁取るまつげは長く、わざわざ上げずとも先がくるんと丸まっている。頬は淡い咲き初めの薔薇の色を思わせ、小さな唇は紅を差さずともほんのりと赤く、まるで摘みたてのさくらんぼのようにつやつやしていた。
 ――まるでお人形みたい。
 初めて彼女に会ったとき、ソフィアはそう思った。そして、こうも思った。
 ――この娘は確かに『王の宝石』の名に恥じぬ、美しい女性になる、と。
 本来ならこの国で婚姻が認められる二十歳になるまで、バレンヌ帝国首都アバロンにいるはずだったその少女は、のっぴきならない国の事情もあり、たった一人で遠いカンバーランドへやってきた。
 少女の婚約者である兄ゲオルグは忙しく、ダグラスにいないときのほうが多かった。少しでも寂しい思いをさせないように、と父ハロルドは女だからと当時政治にも関わらせてもらえず、ただ城で学問や淑女としてのたしなみを学び続けていたソフィアと、少女と歳の近いトーマに相手役を申し付けた。
「お初にお目もじつかまつります。わたくしは、アメジスト・E・ブルースターと申します。この度はわが国の事情を汲んでくださり、感謝を表する次第です。国に代わりまして、お礼申し上げます」
 初対面であるソフィアたちに、その小さな少女はしっかりと挨拶をし、完璧なカンバーランド式の礼をしてみせた。
「不束者、未熟者ではありますが、どうかよろしくご指導、ご鞭撻のほどを、よろしくお願いいたします」
「初めまして。ぼくはトーマと申します」
 歳が近い気安さからか、トーマはにこやかに少女の手を取った。
「初めまして、アメジスト姫。わたくしはソフィア。ソフィア・ロゼ・アンジェリカと申します。本来ならば兄も同席するべきなのでしょうが、兄も時間がとれず……わたくしたちだけでのお出迎え、申し訳ありませんわ」
「いいえ……ゲオルグ王子がお忙しいのは、分かっているつもりです」
 少女は少し、寂しそうな目をした。その目にソフィアはピンと来た。
 ――この子、お兄様に恋をしているのね。
 自分も同じ。相手は違えど、恋をしていたから。だから分かった。
「挨拶も済んだな。ところで、姫の名だが……」
 父ハロルドが口を開いた。
「姫の名『アメジスト』はこの国では『王の宝石』と呼ばれるもの。そう軽々しく呼ぶわけにはいかぬのです」
「はい……」
「ですから、あなた様のことはただ『姫』とお呼びすることにいたしましょう。大切な母御のつけた、愛着のある名を呼ばれぬのは辛かろうと思いますが、無事ゲオルグと婚儀を済ませるまで、堪えてくだされ」
「……はい。この身はすでにカンバーランドのものと心得ております。いたし方がないことだと、分かって……おります」
「姫には関係のない、大人の事情で、済みませぬな。……ソフィア、トーマ。くれぐれも頼んだぞ」
「はい、父上」
「分かりました。……では姫、早速参りましょうか」
 ソフィアがにっこり笑って手を差し伸べると、少女はきょとんとした。
「ええと……お部屋でしょうか?」
「ええ、確かにそれもあります。ですがその前に」
 トーマが走っていって、扉を開けた。
「この城のことを、ご案内せねばなりませんわ。アバロンに負けず劣らず、この城も広うございますのよ」

 そうしてダグラス城の住人の一人となったアメジストは、トーマやソフィアの尽力もあり、すぐにカンバーランドへなじんだ。
 口さがない娘たちもいるにはいたが、それはたいてい今の彼女にはどうしようもないこと――歳が若すぎるだとか、背が小さく女性らしい体つきに欠けるだとか、この国でのしきたりも知らないとかで、アメジストはただ悔しそうな顔をするだけで、泣きもしなかった。トーマやソフィアが味方についている、という事実も大きかっただろう。
 ほんの少しの間に、トーマもソフィアも、この小さな兄の婚約者が大好きになった。なにしろ素直なのだ。向上心も有り余るほどあり、それでいてきちんと、自分の考えを持っている。
「ねえ、姫?」
「はい、なんでしょうか、ソフィア王女」
 二人きりになったときに、ソフィアがそう呼びかけると、笑顔で応えてくれる。
「姫はどうして、お兄様のことが好きになったのです?」
 そう尋ねた瞬間、アメジストの顔が熟れたトマトのように真っ赤に染まる。そのあまりにも分かりやすい反応に、思わずソフィアの口元がほころんだ。
 ――なんてかわいらしい。お兄様はこんな娘に想われて、幸せね。
「あ、あの、……そのぅ」
「ここにはわたくししかおりません。こっそり教えてくださらないかしら。もちろん、口外などしませんわ。わたくしと姫とのお約束です」
 しばらくもじもじしていた少女は、本当に小さな声で、こう言った。
「ゲオルグ王子は……私に、とても優しくしてくださったのです。双子の兄を亡くしたばかりで、遠くへ行きたくないって駄々をこねた私を精一杯慰めてくれて……お約束、してくださったのです」
「お約束?」
「はい……私が泣くようなことがあれば、必ず駆けつけて、助けてくれる、って。それで、私……」
 ――ああ、本当になんてかわいらしいのでしょう!
「ゲオルグ王子は……いつ、ダグラスへいらしてくださるのでしょうか……」
 遠い目をする彼女は、幼くとも一人前の『恋する女』だ。
「そうだわ。ねえ姫、お手紙を書きましょう」
「おてがみ……?」
「ええ。お兄様にお手紙を書きましょう。お兄様はお忙しいけれど、でも手紙を読む暇くらいは作れるはずですわ」
 その瞬間、ぱっとアメジストが花開くように笑ったのを、ソフィアは良く覚えている。
 それから毎日のように、アメジストは手紙を書いた。
 今日はこんなことがありました、今日はこういうことをしました、授業ではこんなことを習いました……たわいない日常を、心をこめて一生懸命手紙に書いた。
 返事こそ一つも返ってこなかったけれど、ソフィアの想い人も含めて男はたいてい、筆不精だ。少し気落ちしていたようだったけれど、それでも日常の自分を知ってもらおうと、少女は一生懸命だった。
 そしてアメジストがダグラスに来てから初めて、ゲオルグがダグラスに戻ってくる日がやってきた。
 ゲオルグが到着する一週間も前からそわそわして、散々悩んで悩んで、悩みぬいて選んだドレスやリボンは幼すぎないか、この髪型はゲオルグ王子の好みではないのではないか、と大騒ぎするアメジストをほほえましく思いつつ大丈夫、とソフィアは声をかける。
 そしてダグラス城に到着したゲオルグは、アメジストを見て初めて彼女がカンバーランドへ来ていたことを思い出したらしい。
「姫。何か不都合はありませんか?」
「い、いいえ。みなさま、とても私に良くしてくださって、あの……」
「それは良かった。……申し訳ありません、父と話をしなければならないのです」
「あのっ……きょ、今日は、お泊りに?」
 その場を去ろうとしたゲオルグにアメジストは必死で声をかける。ゲオルグは振り返り、うなずいた。
「はい。では、また夕食のときにでも」
 それだけ言ってゲオルグは父の待つ謁見の間へ行ってしまったが、少女にとってはそれで十分だったようだった。
「ソフィア王女、どうしましょう。また、夕食のときにって、おっしゃってくれました……!」
「良かったですわね、姫」
「はい!」
 ぽうっと頬を染めてはにかむアメジストに、ソフィアは我が事のように喜んだ。
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