帝国年代記〜催涙雨〜

ススム | モクジ

  不協和音のソナタ  

 人の心が壊れる音を、聞いたことがある。
 小さな、まだ幼いといえるその娘はその瞬間、そのすべての表情を、感情を亡くし、まるで自ら動き言葉を話す、相手にとって都合のいい『お人形』のようになってしまったのだった。



 ソフィアは深い、深いため息をついた。
 その手には掃除担当の侍女が王となったトーマの私室のゴミ箱から拾った、書き損じの手紙がくしゃくしゃのしわしわになって握られている。
 ソフィアのため息に、侍女が叱責されるのかと身を固くしているのが見えた。
 手紙は個人のもっとも私的なものだ。犯罪者などでもない限り、勝手に覗き見ることははしたないとされているし、常識的に考えても問題がある。個人的な手紙をまったくの第三者に読まれてうれしいと思う人間は、それは広い世界の中、いないとは言い切れないが、それも少数だろう。だが丸めて捨てられていたその紙は王が使うものということでかなり上質なものであり、くず紙屋に出せばいくらかの金になる。まあ内容は読み取れないように塗りつぶすなりしなければならないが。
 目の前の侍女もおそらく小遣い稼ぎにと思ったのだろう。だがトーマの失態は、書き損じを塗りつぶすという処理をせずに捨てたことだった。彼女に読むつもりはなかったのだろうが、できるだけしわを伸ばすためにそれを開いた彼女は、塗りつぶされていなかったこととその内容に仰天して、あわててソフィアに指示を求めに来たのだ。

 『早く射止めてしまわないと、他の方に取られてしまいますよ』
 『姉上の結婚式には、婚約者として参列してくださると、ぼくは信じていますからね』

 その手紙は清書のようだったが、途中でつづりを間違えてしまったため、捨てたのだろう。
「……本当に早まったことをしてくれましたわね」
「もっ、申し訳ありませんソフィア王女! お、お許しを……」
「ああ、ごめんなさいね。あなたに怒っているのではなくてよ。むしろあなたにはよくやってくれたとお礼を言いたいくらいですわ」
 真っ青な顔で頭を下げる侍女に、ソフィアは鷹揚に手を振る。
「ご苦労ですけれど、トーマを連れてきてもらえるかしら。どんな用件にも勝る緊急の用、と言って連れてきてちょうだい」
「は、はいっ、ただいま!」
 侍女はもう一度頭を下げ、急いでソフィアの私室を出て行った。

「姉上。お呼びと伺い参上しました」
 部屋に入るなり、トーマは深々と頭を下げる。
「忙しいところ呼び立ててしまってごめんなさいね。さあ、お座りなさい」
「はい。では、失礼して」
 トーマはソフィアの向かいに腰を下ろした。
 ソフィアはじっと弟の目を見て、話を切り出した。
「トーマ。わたくしはあなたを大事な弟だと、そう思っていますわ。もちろんお兄様も。あなたもそうね?」
「もちろんです。姉上は、ぼくを疑うのですか」
「いいえ。そういう意味で疑ったことなど、一度もありませんわ」
「……では、なぜ姉上は怒っていらっしゃるのですか」
 とたんにトーマがしょんぼりとうつむく。
「あら、怒っている、ということは分かりましたのね。……それはともかく。心当たりがない、とあなたは言うのですか」
「ありません! ぼくはそんな、姉上を怒らせるようなことなんて――」
 そこではっとトーマは口をつぐんだ。そしておずおずとソフィアの顔色をうかがう。
「……ええと、あの……この間、ほんのちょっぴり、執務を抜け出して城下に遊びに行ったことでしょうか……」
 そんなことをしていたのか。ソフィアはこめかみがひくつくのを感じた。
 ――ああ、わたくしったら! いくらわたくしが幸せ絶頂だからと言って、こんなにひどい『とりこぼし』をしていただなんて!
「そうではありません。……いえ、それは確かに王としてふさわしいとは言えない行動ですが、別に執務に支障がなければ、そんなにきつく言うつもりはありませんわ。息抜きも必要でしょう」
「では、なぜ……」
「トーマ。あなた最近、お兄様に手紙を出しましたわね?」
 トーマにとっては突然話題を変えられたと思ったのだろう、驚いた顔をして、はい、と答えた。
「姉上と、ポール義兄上の婚儀が決まったと、お知らせしなくてはと思って、出しました。……いけませんでしたか?」
「手紙を出すこと自体はおかしくもいけなくもありません。ですが、内容が問題なのです」
「な、いよう? 姉上と、ポール義兄上の婚儀が決まった、という内容が、ですか?」
 トーマはぽかんとした顔をしている。
「違います。問題はそこの部分ではありません。……トーマ。あなた書き損じの紙を捨てるときに、内容を塗りつぶしませんでしたわね。あなたの部屋の掃除をした侍女が拾って、あわててわたくしに届けに来たのです」
 渋面を作るソフィアに、トーマはたじたじだ。
「今回のものは単なる私信に過ぎませんし、拾ったのは野心のない侍女でしたから、まだいいのです。ですがそれをきっかけに何が起こるかわかりません。あなたはすでに王となったのですから、手紙の内容や取り扱いには注意を要する。わたくしはそう、きちんと教えましたわね?」
「……はい。浅慮でした」
「よろしい。……それで呼び出したのはね」
「え、まだ何か……愚かなことをしていたでしょうか」
 ソフィアは無言でしわくちゃの手紙をトーマに渡した。
「えっと、ぼくが兄上に出した手紙の、書き損じ……ですよね」
「そうよ。あなたのことだから、きっとこの内容であまり変えずに出したのでしょう」
「はい。それが、何か問題が?」
「問題大有りです。……あなた、何を思ってこんなことを書いたのです? 下手をすれば内政干渉になりますわよ」
 ソフィアが指差す先を見て、トーマは首をかしげた。
「ええと……兄上が早く皇帝陛下とご結婚されればいいな、と思って……確かに結婚の申し込みをするって書きましたけど、それは兄上に決意を促すために……」
 ソフィアはもう一度、深くため息をついた。
「トーマ……わたくしとお義母様は、あなたにずっと女性をただの駒や、子を産む道具だなどと思ってはならない、と教えてきましたわね」
「はい。そういう意味では、父上のようにはなるな、と……」
「では、なぜこのようなことをお兄様への手紙に書いたのです。わたくしに分かるよう、きちんと説明なさい」
「だ、だって……兄上は皇帝陛下のことを好いていて、皇帝陛下だって、そりゃあ国の事情で破棄されてしまいましたけど、元婚約者で……だから義姉上に早くなって欲しいって、思って」
 しどろもどろと言い募るトーマに、悪気はなかったのだろう。
 この純粋な弟は、本心からそう思っているのだ。だからこうして手紙にも書いた。
 ――歳が離れているからと言って、少し甘やかしが過ぎたようですわね。
「トーマ。あなたは姫のことが好き……女性として好きかと聞いているのではなくてよ、好きではないのですか」
「大好きです! だからこそ、兄上に相応しいお方だって……姉上はそう思ってらっしゃらないのですか!?」
「わたくしも姫のことは大好きよ。でもね、トーマ。そのお兄様が過去、姫にした仕打ちを、あなたは忘れてしまったのですか」
「……っ!」
 トーマは絶句した。そう、あの仕打ちも、彼女のあの表情も。忘れてはいない。いや、忘れられないのだ。ソフィアも、トーマも。
 気づいていないのは、今は亡き父とその仕打ちをした当人の兄だけだ。
 トーマは泣きそうな顔で、ソフィアを見つめる。
「だから……だから、今度は……今度こそはって、思って。……兄上がした仕打ちを、なかったことにはできません。でも、だからと言って兄上の今のお気持ちをなくすことも、できません。……せめて、兄上が挽回する、その機会すら、与えられないのですか」
「……あなたは優しい子。でもね。もう少し人の心の機微というものを覚えなさい。姫は、まだ傷ついている――そうは思わなかったのですか?」
 ソフィアはトーマの手を握った。
「確かに姫は笑っていらしたわ。以前の、この国に来たばかりのころの表情や感情を取り戻されていたわ。でもだからと言って、お兄様に傷つけられた心の傷が癒えたとは限りません。……分かりますわね」
「でも……皇帝陛下は、兄上を直属近衛にしてくださいました」
「それは、純粋に姫の政治的な判断です。……カンバーランドは独立した国でした。それがいくら内乱を収めてくれたからと言って帝国に下ることに、反発するものもいたでしょう。帝国の植民地とされるのではないか、という声があったのも、覚えていますわね」
「……はい」
「姫はバレンヌの、そしてカンバーランドの不満を抑えるために、お兄様を直属近衛として取り立てた。直属近衛は政治には直接関われなくとも、バレンヌでは皇帝に次ぐ地位とみなされますから、王兄であるお兄様を直属近衛として取り立てれば、カンバーランドをただ植民地とするわけではないと示せる。そうでしょう?」
「……はい」
「本当は、もっと簡単な手もあったのです。姫は独身。そしてお兄様も独身なのですから、お二人が結婚してしまえば、一番不満もなく丸く納まったでしょう。あなたが言ったとおり、かつては婚約者同士であったわけですからね。でも姫はそれをしなかった。……いいえ、できなかったのだ、とわたくしは見ますわ。それは、まだお兄様の仕打ちに傷ついていて、心が血を流している、という証明になるのではなくて?」
「…………」
 泣きそうな顔のままうつむいたトーマの頭を、ソフィアは優しくなでた。
「あなたの言いたいこともわかります。姫が義姉上になられたらうれしいのは、わたくしも同じです。でもそのために姫のお気持ちを無視してはいけません。姫はおしゃべりをするお人形などではなく、一人の心を持った、れっきとした女性なのよ。お兄様が挽回する機会をもらえるかどうかは、わたくしやあなた、ましてやお兄様が決めることではなく、姫ご自身が決めることなのですから。……そんなことでは、あなたもいつかのお兄様と、同じになってしまいますよ」
「……ぼく……ぼく、兄上の仕打ちをこの目で見ていながら……とんでもないことを……してしまったのですね」
 ぽたり、とトーマの目からしずくが落ちる。
「……しでかしてしまったことはどうしようもありません。でも、これからは気をつけなさい。これはあなたの心がけ一つで何とかできることですわよ。それから、この件はこれ以上、つついてはなりません。謝罪の手紙も出してはなりませんよ。……分かりましたわね?」
 ソフィアの言葉に、しばらくぽたぽたと涙を流していたトーマは鼻をすすり、やがてはい、と小さくうなずいた。
ススム | モクジ

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