帝国年代記〜催涙雨〜

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  color me blood red.  

 翌日、不意にざわざわと辺りが騒がしくなった。目をやると、乗組員らしき男たちが甲板と船底をばたばたと行き来している。
 来たか。アメジストは立ち上がり、窓を開けて手を差し出す。
 風精たちがやはり笑いながら、サジタリウスの伝言を伝えてくれた。
 モウスグ ツキマスヨ ダッテ。くすくすと笑いながら、風精たちはくるくると踊る。
「ありがとう、風精たち」
「おねえさん?」
「……シーデー、多分もうすぐあなたを帰してあげられると思う」
「ほんと!?」
 ぱっとシーデーの顔が輝いた。そしてそれに呼応するように、男のだみ声が響く。
「敵襲だー!」
 おそらく、リチャードたちがエンリケに船を出してもらったのだろう。そして追いついたのだ。
 しばらくして檻の外にサイフリートが現れた。顔には笑みとも自嘲ともつかぬ表情を浮かべている。
「皇帝陛下。ゲオルグ王子やあなたの従者どもが追ってきています。……あなたには最大限、役に立ってもらわねば」
「サイフリート。あなた変わったわ。どうしてこうなってしまったの」
「……あなたには分からない。私の苦しみなど……」
「ええ、分からないわ。……だって、あなた何も教えてくれないもの」
 アメジストの言葉に、サイフリートは唇をゆがませた。鍵を開けて彼は中に入り、扉を背にした状態でアメジストと視線を合わせた。
「では教えて差し上げましょう、ちいさなお姫様。……あなたがカンバーランドにいたときが、おそらく私の一番幸福なときだったのでしょう。あのひとがいて、トーマ様がいて……だが、あなたがバレンヌに帰ってからはまるで坂を転がり落ちるかのようだった。くだらない政争に巻き込まれたあのひとが死んで、幼いトーマ様がひとり残された。……神はなにも手を差し伸べてはくれなかった。私は、甘い汁を吸うだけで、のうのうとのさばる、何の益体もない貴族どもからトーマ様を守らなければ、と、思ったのですよ」
 私は今でも、ハロルド王に嫁いだあのひとの心はわからない、とサイフリートは言った。けれど、あのひとの忘れ形見だけは守らなければいけないと思った、とも。
「だからね、私は必死で食らいついた。ただの平民、しかも後ろ盾を持たぬものがこの国で駆け上がるためにはどうしても必要だったのですよ、禁呪という大きな力が……」
「それは人を捨てることだわ。……高潔だったあのひとが、あなたがそんなことに手を染めたと知ったらどう思うか。私よりも長い時をあのひとと過ごしたはずのあなたは分からないの?」
「そんなことは分かっている!」
 サイフリートが激昂し、片手でアメジストの首の両脇を締め上げた。血流がさえぎられ、一瞬で頭が真っ白になる。
「く……」
「しかしあなたとは違い、私に救いはなかったのだ! あのひとの忘れ形見、お優しいトーマ様をこの国の王にする、それ以外に!……それともあなたが私を救ってくれるとでも言うのか! 『王の宝石(いし)』紫水晶をその名に持つあなたが!……ははは、そんなことは無理だ」
 血走った目でサイフリートはアメジストの首からいったん手を外し、逃げられぬように後ろ手に腕をひねり上げた。苦痛に思わず悲鳴が漏れる。
「……私が欲しいのは、もはや救いなどではないのだから!」
「おねえさん!」
「どけ、小娘!」
 すがりついたシーデーを蹴り飛ばし、サイフリートはアメジストを連れて扉から出た。しっかり鍵をかけ、暴れるアメジストに脅しをかける。
「おとなしくしていただきましょうか。でなければ、あの子がどうなっても存じませんよ?」
「……ずいぶんと陳腐な脅しね。あなたらしくないわ」
「陳腐ということは、それだけ使われる有効な手であるということです。こういうときに奇をてらっても、策に溺れるだけですからね」
 低くサイフリートが笑う気配がした。アメジストは唇を噛み、抵抗をやめる。事実、サイフリートが手を下さずとも、一言周りのものに命じればシーデーはどうなるか。それは火をみるよりも明らかだ。
「賢明な判断です。……では、一緒に行っていただきますよ」
 サイフリートはアメジストを連れ、甲板へとあがった。海風がアメジストの髪をなびかせる。目を凝らせば、エンリケの船はこちらの船と並走してはいるものの接舷はしていないようで、こちらとあちらで盛大な弓矢の応酬が行われている。
 サイフリートは弓矢が途切れたのを機に一気に甲板の真ん中に走り出した。術を使えぬよう口をふさいだアメジストを連れて。
「攻撃をやめろ! やめなければ貴様らの大事な皇帝の命はないぞ!」
 サイフリートの大声は向こうにも聞こえたらしい。弓矢の応酬が止む。
 アメジストはさっと視線を向こうの船へめぐらせた。珍しく弓を持っているリチャードと接舷を待っているゲオルグ王子とジェイスン。そしてサジタリウスに視線を向けると、彼は弓を構えた手を凍らせたまま、じっとこちらを見据えていた。
 視線がかち合う。アメジストはゆっくりとうなずいて見せた。
「……、…………」
 何事かつぶやいて、サジタリウスは周りがとめるのを無視して矢を番える。
 それを見たサイフリートがあわてて術を構成し始めるが、遅い。
 風を切り裂く音。サジタリウスの弓から白い線が放たれ、サイフリートの術が発動する前に、綺麗な弧を描いてアメジストの顔の横、サイフリートの心の臓に突き刺さった。
「そ、んな……ばか、な」
 ごぼりと血を吐き、サイフリートは崩れ落ちた。同時にアメジストも解放される。
 アメジストには、頬の擦過傷以外は傷一つなかった。
 アメジストは足元に横たわるサイフリートに視線を落とし、ひざをついた。
「……ね、……さ……」
 サイフリートの唇がわななき、アメジストの顔に手を伸ばす。……その手が頬に触れる前に、彼はがっくりと脱力した。
「サイフリート。哀れなひとね」
 アメジストは祈った。哀れな彼の魂が、間違いなく神の御許へ旅立てるように。
 サイフリートが倒れたのを見て、船にいた者たちが次々と投降し始める。やがて船が接舷し、リチャードたちが駆け寄ってくる。
「陛下! ご無事ですか」
「ええ。……ごめんなさい、みんなには心配をかけてしまったわ」
 あれは完全にアメジストの判断ミスだ。ゲオルグ王子がアメジストの手を取る。
「姫、お願いですからあんな無茶はなさらないでください。心の臓が止まるかと思いましたよ」
「申し訳ありません、ゲオルグ王子……」
 ゲオルグ王子はアメジストの頬に走った傷を手巾で押さえた。周りを見ればエンリケをはじめ一緒についてきた彼の部下たちが乗組員たちを拘束している。
「……陛下」
 乾いたジェイスンの声にそちらを向いた瞬間。アメジストの頬にジェイスンの平手が飛んだ。
「なっ……!」
 叩かれた頬を押さえて絶句する。ジェイスンは軽くため息をついた。
「どうして殴られたのか、お分かりですね」
「貴様! 姫になんということを!」
「ああもううるっせえなああんたは! いちいち突っ込んでくるんじゃねーよ、黙ってろ!」
 ジェイスンはじろりとゲオルグ王子を睨みつける。その気迫にゲオルグ王子は完全に呑まれたようだ、驚いたように一歩引く。
「戦闘中に注意をそらしてどうします。下手をしたらあんたあのまま殺されていましたよ。たかが、」
 ずい、と何かを握った手をアメジストに突きつける。
 握られているのは鎖のちぎれたアメトリンの首飾り。あの時サイフリートのことも忘れ、必死で拾おうとしたもの。
「こんなもんで、あんた命捨てるところだったんですよ! 分かってるんですか!」
「たかがですって!?」
 さすがにこれは聞き捨てならない。一瞬でアメジストの頭に血が上る。ジェイスンの手からそれをむしりとり、アメジストは叫んだ。
「たかがじゃない、私にとっては大事なものなの! あなたには分からないわ!」
「聞いてますよ、あんたの死んだ兄さんの形見だってのは。ですがね、その形見とやらのせいであんたが死んだとなったら、あんたの兄さんは、周りの人間はいったいどう思いますかね」
「……っ!」
「……あー、ジェイスン。まあ落ち着けや」
 いつの間にか背後にいたエンリケがジェイスンの肩に手を置く。
「お前の言葉は正論だよ。でも、正論すぎて今の嬢ちゃんがそれを受け入れられてない。それでなくても異常な状態で気が立ってんだ、もうちっと噛み砕いて話してやれ」
 ジェイスンはばつの悪そうな顔で舌打ちした。エンリケはジェイスンの肩から手を外し、今度はアメジストの頭に手を置いた。
「ま、嬢ちゃんもホントは分かってんだよな。ただ今は、いっぱいいっぱいでジェイスンの言葉を素直に受け入れられないだけだ。落ち着いて考えたら、ちゃんとジェイスンの言ってることも分かるはずだ。だって嬢ちゃんだもん」
 な? と頭をぐりぐりとなでられる。リチャードたちにとってはもはや慣れっこだが、ゲオルグ王子にとっては不遜な態度にしか見えなかったようだ。眉を吊り上げて叱り飛ばそうとしたとき、エンリケの部下らしい男がエンリケを呼んだ。
「なんだ、どうした」
「船倉に、女が数人……」
「そうだわ!」
 アメジストは声を上げる。
「エンリケ、そのひとたち、人身売買で捕まった女の子たちなのよ。助けなければ」
「……まーたきな臭ぇなあ。ひょっとしてあちこちで起こってた行方不明事件と関わってんのか?」
 ぶつぶつとつぶやくエンリケを尻目に、アメジストはサイフリートの隠しに入っていた小さな鍵を引っ張り出す。
「みんな、行くわよ!」
 アメジストは足早に船倉へ向かって駆け出す。サジタリウスはため息をついた。
「……陛下が、傷つかねばよいのですが」
「……なんだって?」
 小声でつぶやいたその声にジェイスンがサジタリウスを振り返る。サジタリウスは首を横に振った。
「いえ、何でもありません。……行きましょう」
 そう言ってサジタリウスは前を行くゲオルグ王子とリチャードを追いかける。アメジストにはすぐ追いついた。
 アメジストの先導で一同は甲板から船倉へ降りていった。
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