帝国年代記〜催涙雨〜

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  color me blood red  

 アメジストは寝台から体を起こした。
 心臓がひどく早鐘を打っている。首の後ろがちりちりと総毛立っている感じがする。
 アメジストは首に手を添えた。もちろん、そこは絞められたあともなく滑らかなままだ。
 ひとつ、ため息をつく。
「……このままじゃ、眠れそうにないわ」
 一人ごちて、アメジストは寝台から降り、寝巻きの上から全身を覆うほどのマントを羽織った。着替えるのすら、億劫だった。
 エンリケのところに行こう。彼なら、寝酒に強い酒でも分けてくれるだろうから。
 乱れた寝台もそのままに、アメジストは部屋を出た。

 食堂への扉を開けると、カウンターの内側にエンリケ、その向かい合わせの席にジェイスンが座っていた。
「よう、嬢ちゃん。どうしたい、眠れねーのか?」
 二人で何を話していたのやら、エンリケは顔を上げると笑いながらカウンターにひじをついた。
「ええ。……悪いのだけれど、強めのお酒をもらえないかしら?」
 なんとはなしにジェイスンの横に腰掛け、エンリケに伝える。
「寝酒はあんましよくねえぞ? てか顔色も悪ぃしやめといたほうがいいんじゃねえの?」
 まさかエンリケに諭されるとは思っていなかった。……かなり失礼かもしれないが。
「ここは陸じゃないんですから、下手したら悪酔いしますよ。……エンリケ、あれはあるか」
 エンリケの言葉に続けて諭しながらジェイスンが立ち上がり、カウンターの奥へと歩いていく。
「んあ? ああ、そこの棚に入ってるぜ。んじゃ、オレはそろそろ寝るわ。ジェイスン、後片付けよろしくな」
「ああ」
 エンリケが立ち去ると、ジェイスンは実に手際よく湯を沸かす準備を始めた。
「……私は、強めのお酒をちょうだい、といったはずだけれど」
「オレも下手したら悪酔いしますよ、といったはずですが」
 さっくりとこき下ろされて、言葉に詰まった。
 しばらくの沈黙。それを破ったのは沸いた湯の音。
 ジェイスンは棚から茶葉を取り出し、まずポットとカップに湯を入れて温め、それを流しに捨てる。ポットに茶葉を入れ、湯を満たす。さらにポットの上にガーゼをかぶせ、数分待つ。
「これは強い鎮静作用があるハーブを入れてます。これだけでも、相当違うと思いますよ」
 そういいながら出してくれた茶から香るのは、かすかな甘い香り。
 息を吹きかけて冷ましながら一口すすると、なんとも不思議な味がした。
「……不思議な味がする。でも、おいしいわ」
「そりゃよかった。ハーブは好き嫌いがかなり分かれますからね」
「なんていうハーブなの?」
 アメジストの問いに、ジェイスンは少し笑った。
「カミツレ、です。……あなたの花、ですね」
 アメジストは思わずカップを取り落としかけた。
「……知っていたの?」
「年越しの宴のとき、あなたが頭につけていた意匠を見ましたからね。それで見当がつきますよ」
 男性で花に詳しいとは、珍しい気がする。素直にその疑問をなげると、ジェイスンはこともなげに言った。
「ああ、レグルスが教えてくれたんですよ。レグルスは、どうもオレに医者か薬師になってほしかったみたいで、いろいろ叩き込まれました。カミツレはその中にあったんですよ」
 胸が、温かくなる。茶のせいか、それとも。
 すべて吐き出してしまいたくなった。ジェイスンなら、きっと受け止めてくれる。
 そう思った瞬間、言葉が口をついて出ていた。
「……ルイ大公が、ね」
「はい」
「夢に……出てくるの。それでね、私の首を絞めるのよ」
「はい」
「夢だって、分かっているのよ。でもね、とってもリアルで……」
「……はい」
 子どものように、怖い夢を見た、と切れ切れに話すアメジストを、ジェイスンは笑ったりはしなかった。
 先を急かしたり言葉をさえぎったりすることもなく、ただ相槌を打つだけで静かに聞いている。
「……あの人、昔はとても優しかったの。でも、いつからか……私が母さまの死を看取るためにアバロンに戻ったときにはもう、あんなだったの。……私は、」
 あの人が支えてくれるなら、母さまとの別れも乗り越えて、バレンヌを統べることもできると思ったのに。
 勝手な思いだ。たとえルイが昔のまま優しい王子だったとしても、彼にアメジストの思うとおり振舞う理由はないのだ。
「このまま、カンバーランドに行っても……また、あの人と同じように、裏切られるのかもしれないって、思って……」
「…………」
「ゲオルグ王子が、私の、元……婚約者なの。ゲオルグ王子も、あの人と同じく、優しかったわ。でも、私、いくら国の大事だからって、ひどいこと、してしまったの。それなのに、ゲオルグ王子には優しくしてほしいって、はじめに裏切ったのは私なのに」
「陛下」
 カップを持った手に、ジェイスンの手が重ねられる。
「泣いても、いいんですよ。……泣けないのは、とても辛いことですから。あなたには皇帝の立場もあるでしょうが、ここにはオレしかいません」
 だから、とジェイスンは続けた。
「泣いても、いいんです」
 その言葉を理解したとたん、アメジストの目から大粒の涙が溢れ出した。
「や、やだ、どうしてっ……」
 止まらない。とめどなく、涙が流れ続ける。

 でも、泣いたのは……いつ以来だろうか。

 ただジェイスンの手のぬくもりだけが、今のアメジストのすべてだった。
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