帝国年代記〜催涙雨〜

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 最近は珍しく、アメジストはどこにも出かけずにおとなしく執務をこなしていた。
 細々とした業務がたまりにたまりまくっていたのである。さすがにこればかりは手伝ってもらうわけにもいかずに上がってくる書類に目を通し、判を捺したり突っ返したり。
 その中のひとつに、アメジストはふと目を止めた。
 それはバレンヌ帝国全域で行方不明者が多発しているという報告だった。その中でも特に多いのは、ソーモン、ティファール、モーベルム。
 ティファールはもともと宝石鉱山があるし、ソーモンやモーベルムは港町だという関係上、いわゆる「荒くれもの」が多い。だが今まで行方不明者が出たことはなかったはずだ。少なくとも、上がってくる報告を見るならば。
 これは要調査だな、と思い、そばにいる大臣に調査を命じる。
 そのほかの執務もようやく終わりそうだ、という頃になって戻ってきた大臣が声をかける。
「陛下。書状が届いておりますが」
「……何にも聞こえないわ。明日にしてちょうだい」
 ちらとも視線を合わせずに切り捨てる。仕方がないとはいえ、何時間も書類と格闘するはめになったのだ。無理もなかった。
 しかしそれで済ませられないのが大臣の方である。聞こえてるじゃないか、と言いたいだろうが、その気持ちをぐっと飲み込んだらしい――そしてアメジストへ一通の書状を差し出す。
「カンバーランド王国のハロルド王からです」
 書類を決裁するアメジストの手が、ぴたりと止まった。


 アメジストが告げた行き先に、リチャードとジェシカは目を丸くした。
「ええっ、カンバーランド……ですか?」
「そうなのよ。なるべく早く私と会いたいって書いてあったわ」
 二人は顔を見合わせた。
「でも……大丈夫なんですか?」
「……ハロルド王直々の書状、まさか無視するわけにもいかないでしょう。……まあ、今更……だけれども、ね」
 アメジストは苦笑を浮かべた。
「……すみません、オレには全然状況が理解できないんですが」
 ジェイスンの言葉で、その場が一瞬水を打ったように静かになった。
「……そうか、あなたは陛下が戻られた後にこの国に来たんでしたね……それでは知らなくても無理もありません」
 サジタリウスは腕を組み、困ったようにアメジストに視線をむける。
 アメジストは目を閉じ、頭を振った。
「いちいち説明するの面倒だわ。向こうに着けばいやでも分かるから、今は聞かないで」
「はあ。……ですが」
 言いかけて、ジェイスンは言葉を飲み込んだ。
 こういう場合、何を言っても無駄だ。ここで問い詰めたとしても、アメジストは絶対に口を割らないだろうから。


 一週間後、皇帝陛下ご一行は船上の人となっていた。


 空の色よりももっと深い、紺碧の海に小さな波をたてて船は進んでいく。
 なんだか呑み込まれてしまいそうだ、とジェシカは思った。
 こんなにも、綺麗なのに。
「ジェシカ、そんなに乗り出すと落ちるぞ」
「大丈夫。そんなへましないわよ、あんたじゃあるまいし」
 振り返って確かめるまでもない。背後に立つ人物がリチャードだとすぐにわかった。伊達に付き合いは長くない。
「陛下はどこに?」
「向こうにいらっしゃるわよ。……考え事があるからしばらく一人にして欲しい、って」
 ジェシカは船尾の方を指し示す。その方向にはぼうっと空を見あげる彼らの皇帝の姿。
 どうせ船の中ではすることもないのだし、視界に入るところにいるのだからいいか、と判断しジェシカはアメジストの側から離れたのだ。
「……だろうな。全く、カンバーランド王も一体何を考えておられるのやら」
「あの話は、もう正式になくなっているのにね。陛下が傷つくようなこと、なければいいけど」
 ジェシカは小さくため息をついた。



 月ひとつない夜。
 アメジストはふと目を覚ました。
 見えるものは、あてがわれた部屋の天井。見慣れないもののはずなのに、違和感を覚える。

(……あ)

 体が重い。息ができず、苦しい。耳鳴りもひどい。

(これは、夢だ)

 いつもの、夢だ。
 だってほら、もうすぐ――あの人が。

 ゆらりと見えたのは、金色の髪に青い目の、ここにいないはずの彼。
 彼はゆっくりと手をアメジストの首に伸ばす。

(起きなければ。……動いて、動いて!)

 今までの経験上、指一本でも動けばこの夢は終わるはずだ。
 彼の指が、アメジストの首を絞め始める。どちらにせよ呼吸ができないのには変わりないのだが、はっきり言って、これは精神的に消耗する。
 アメジストの指がピクリと動いた瞬間、アメジストはまるで引き上げられるかのように目を覚ました。

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