帝国年代記〜催涙雨〜

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  Carmina Burana  

『兄上へ。

 兄上におかれましては、いかがお過ごしでしょうか。
 アバロンはこちらより寒いと聞きます。風邪など引いていないでしょうか?
 こちらはみな、元気です。
 先日、姉上とポール義兄上の婚儀の日取りが正式に決まりましたので、兄上にお知らせするべく、筆をとりました。
 来年の、姉上の誕生日。その日に婚儀を執り行うことになりました。
 結婚が正式に決まって、姉上はいつにもまして綺麗になりました。ポール義兄上も、前よりも頻繁に姉上に会いに来ています。二人とも本当に幸せそうで、ぼくもとてもうれしいです。
 後日、改めて招待状を送りますね。
 ところで、兄上。
 まだ兄上のお祝い事が聞こえてこないのですが、こちらに届いていないだけでしょうか。
 ぼくは、皇帝陛下が義姉上となる日を今か今かと心待ちにしているのですが。まさか、まだ皇帝陛下へ想いを伝えていない、などということはありませんよね?
 皇帝陛下はとても魅力的な方なのですから、早く射止めてしまわないと、他の方に取られてしまいますよ。たとえば、いつも皇帝陛下の側にいた、金髪の男の人とかに。あの人は格好こそ派手でしたけれど、とても信頼できる人みたいですし、ぼくの目から見ても、本当に親密そうにしていましたから。
 あまりにもたもたしていると、ぼくも皇帝陛下へ結婚の申し入れをしてしまいますよ? ぼくだって、身分的にも皇帝陛下との年齢的にも、まったく問題ないんですからね。まあ、実際に申し込むとしたら、ぼくが二十歳になってからになるでしょうけど。
 姉上の婚儀の際には、婚約者として皇帝陛下と一緒に参列してくださると、ぼくは信じていますからね。

 あなたの弟、トーマより。』

「そんなことは分かっているのだ!」
 ゲオルグはいらいらと拳を机に叩き付けた。
 自室で十日間の謹慎という処分を言い渡されたゲオルグは、先日届いたトーマからの便りの返事を書こうと筆をとったのだが、その際そのこまっしゃくれた手紙の内容を思い出してしまったのだ。
 拳を叩き付けた、その拍子に便箋が音を立てて破れてしまい、ゲオルグは思わず天井を仰いでため息をついた。
 分かっているのだ。彼女がとても魅力的な女性だということは。たとえるならば彼女は光。周りに侍るものに等しく、惜しみなくその恩恵を与える、なくてはならない存在。
 ああ、どうして過去の自分はあんなにあっさりと彼女の手を離してしまったのか。たとえ国の、今は亡き父の決定に逆らってでも彼女を離しさえしなければ、あの男を気にすることもなく、ましてや半分とはいえ血を分けた弟がライバルになるなどと言い出すこともなく。今現在自室で謹慎もしていないはずだ。
 引き出しを開けて、昔アメジストに『約束の証』としてもらったリボンを手にとって眺める。
 ――姫は私の『約束の証』をまだ持ってくれていた。ならば、まだ見込みはあるはずだ。
 そしてついあの男――ジェイスンのことを思い出して、ゲオルグはむっと唇を引き結んだ。
 ――やつにだけは、負けたくない。
「失礼いたします」
 そのとき、ノックの音と共に中途半端な長さの薄緑の髪を束ねた、青い目の女性がワゴンを引いて入ってきた。
 とりあえずゲオルグは、ある意味不毛な思考を横に置く。
「ええと……何か用かな?」
「はい、夕食をお持ちいたしました」
 ああ、もうそんな時間だったか。
 ゲオルグの前まで来て一礼する、その女性にゲオルグは見覚えがあった。彼女は、確か。
「君は……確か、ジェシカ殿、でしたか」
「はい。ジェシカ・0・ラズウェルと申します。先だっては大変、お世話になりました」
 もう一度、彼女は優雅に頭を下げる。
「どうして君がここに……療養中ではないのか? それに、君は結婚したのだろう? 姓が変わっていないようだが」
「もう体力も戻りましたので、陛下の側仕えとして勤めさせていただいております。私がここに参りましたのは、陛下のご采配です。聖騎士であるあなたならば、女性に無体を強いてまで部屋を突破しようとすることはないだろう、と。ですが私は女官としてはまだまだ修行中の身ですので、何か失礼がありましたらお許しください。それと」
 ジェシカはワゴンから食事の皿を取り、テーブルに並べる。左腕が使えないせいか、それはどこかぎこちなく見えた。
「確かに私は結婚しましたが、爵位はまだ父のものです。それに、カンバーランドとは違ってバレンヌでは女性が家督を継ぐことは、さほど珍しいことではありません」
 皿を並べ終えたテーブルを手で示し、どうぞ、さめないうちに。と声をかけられる。
 食前の祈りを捧げて、ゲオルグは食事を口にし始めた。


 食事が終わると、ジェシカは皿を片付け出した。ぎこちなく作業を続ける彼女に、食後の祈りを捧げ終えたゲオルグは内心首をかしげる。
 彼女がこの部屋に来てから、食事中も。ずっと彼女の態度に違和感を覚えていた。
「……君は、怒っているのか?」
「あら、お分かりになりましたか。意外と周りを見ていらっしゃるのですね」
 ジェシカは笑うが、目が笑っていない。
 この態度は女官として問題がある。ゲオルグとジェシカの接点は特になく、先だってのカンバーランド内乱の際に少し接しただけだ。だが彼女が意味もなくこういう態度に出るような女性ではない、ということが分かる程度には、面識があった。
「私は、君に何か失礼なことをしただろうか?」
「いえ、私自身には、特に」
「では、君はどうして私に怒っているのだ? 理由を教えて欲しい」
 片づけをするジェシカの手の中で、皿ががちゃんと鳴った。
「理由、理由ですか。……陛下を泣かせた、それだけで十分すぎるくらいです」
「……なに?」
 ゲオルグは眉をひそめた。アメジストを泣かせたなど、ゲオルグの記憶にはない。
「陛下は、カンバーランドに……あなたにひどいことをした、と気に病んでおいでです。……婚約のことです」
「婚約? だがそれは、帝国側から正式に破棄の申し出があったのだぞ。姫が皇位を継ぐから、と」
「存じております。ですが婚約も婚約破棄も、何一つ陛下のお気持ちで決めたことではなく、国の一存で決められたことです」
 皿を片付けながら、ジェシカは続ける。
「ゲオルグ王子。あなたの陛下への行動は、正直言って何をいまさら、としか思えません」
「いまさら、だと?」
「いまさらでしょう。あなたも婚約破棄を受け入れたはずです。それなのに、あなたときたら直属近衛になったことをいいことに、陛下があなたに強く出にくいことをいいことに、陛下を困らせるようなことばかり……」
 ジェシカは皿を片付ける手を止めた。
「ゲオルグ王子。たった一人で習慣も価値観もまるで違う、遠い異国へ行かねばならなかった陛下のお気持ちが、あなたにお分かりですか。しかも、まだ十歳という幼さで、おまけに半身のようだった兄君の葬儀もそこそこに。……陛下はあなただけが頼りだったんです。それなのに、あなたは……」
「…………」
「陛下がお戻りになった後、皇位を継ぐことが決まった後で、陛下は一度だけ、私と、私の夫であるリチャードの前で泣いたんです」
 ジェシカはじっとゲオルグを見据えた。静かな怒りをたたえた目で。
「……ゲオルグ王子は、一度も私を見てはくれなかった。カンバーランドの人間もバレンヌの人間もみんな、私のことを『記号』でしか見ない。『皇族の血を継ぐ公爵家の娘』、『次期皇帝陛下』……それは私である必要はあるのか、その『記号』さえあれば、私という人間でなくてもいいのではないか……と」
「……それは」
「ある程度は仕方のないことでしょう。私も一応『伯爵家の令嬢』という立場ですから、分かります。私は必死で陛下に私は、私とリチャードだけは陛下のお側にいる、陛下だけにお仕えすると誓いました。……それは本心ですが、私は今でも、それが本当に陛下の欲しい言葉だったのか……分からないのです。ですがその後、少なくとも私の前で陛下がお泣きになることはありませんでした」
 一瞬だけ、ジェシカの目が悲しそうにゆれた。
「もし、陛下が悲しむようなことがあれば、許しません。たとえあなたでも、私は」
 そこでジェシカは言葉を止め、頭を下げた。
「……言葉が過ぎました。あなたにとっては、陛下のお気持ちなど、どうでもいいことでしたね。お許しください」
「……謝らずともよい」
 ゲオルグは、苦しそうに声をあげた。
「君は、またここに来るのか」
「はい。あなたが謹慎中の間は、私が主にお世話をするよう、指示されております」
「そうか。では……」
「……寝所へのお誘いならば、お受けできませんよ? 私は結婚しておりますので。どうか他の、あなたと寝所を共にしてもいいというものにお願いしてください」
「ち、違う! そうではないのだ。そうではなく……」
 あわててゲオルグがそれを否定する。
「姫のことだ。確かに私は、大事な兄君を亡くし、まだ母君の元にいて甘えたかったであろう姫の寂しさを、ただ自分が忙しいという理由で放置していた。今にして思えば、それはただの言い訳にしか過ぎぬというのにな。それは認めよう。だがだからこそ、今度はきちんと姫のことを理解したいと思うのだ」
 ゲオルグは決意を秘めた目でジェシカを見た。
「君にお願いしたい。姫のこと、この国のことを、教えてはくれまいか。私はこの国のことを、学校で習うようなこと以外、ほとんど知らないのだ。いや、知ろうとしなかったと言うべきか……だから、いろいろと教えて欲しいのだ」
 ジェシカはゲオルグの真意を量りかねているようで、しばらく首をかしげてゲオルグを見つめた。
「……私の主観でお話しすることになります。それと、私とて陛下のすべてを知っているわけではありません」
 やがてジェシカはそう口を開いた。そしてうなずく。
「それでも、よろしければ。いくらでもお話いたしましょう」
「……すまない。君も忙しいだろうに。恩に着る」
「いいえ。お気になさらず。……では、失礼いたします」
 また優雅に一礼したジェシカは、からっぽの食器を載せたワゴンを引いて、ゲオルグの自室から出て行った。
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