帝国年代記〜催涙雨〜

モドル | モクジ

  Carmina Burana  

 アメジストは、向かいに腰掛けている彼の顔をとっくりと眺めた。だが最初の驚き以外、彼の感情は仮面に隠され、揺らぎはまったく感じられなかった。
 リチャードが壁際から心配そうにこちらを見ているのが分かる。目の前の彼と一緒にいたはしばみ色の髪の女性は、アメジストが彼に近づいてくるのを見てふい、と後ろを向いて歩いて行ってしまった。今では人ごみに紛れ、どこにいるのかは分からない。
「……あなたを見ていると、昔を思い出します」
 突然彼がしゃべり始めたので、アメジストは思わずひっくり返った声をあげてしまうところだった。自分から声をかけておきながら話しかけられて驚くなど、本末転倒にもほどがある。
 彼が目を閉じたのが、仮面越しでも分かった。
「昔、昔のことです。……私には、とても大切な女の子がいたのです。……あなたは、その女の子に、よく似ている……だからでしょうか、こんな気持ちになるのは……」
「……私も、ですのよ」
 彼の言葉が途切れるのを待って、アメジストが笑う。
「私にも、あなたと同じように……とても大切な、そして、とても大好きな男性がいたのです。まだ幼かった私にとっては、世界のすべてのような方だった。お忙しいにもかかわらず、私や兄のことをよく目にかけて、かわいがってくださった……あなたは、その方によく似ていらっしゃるわ。……その方は、残念ながら今では私のことを嫌いになってしまったようなのですけれど……とても、冷たくなってしまって……けれど、まだあきらめきれないのです。お優しいあの方の面影を……」
 悲しそうにうつむく。が、彼がどういう行動に出ても対処できるよう、注意はそらさない。
 ――さあ、どう来るか。
「……そんなことはないでしょう」
 予想外の彼の言葉に、アメジストは顔を上げた。彼の口元には穏やかな笑みが浮かんでいる。仮面越しの目も、きっと優しく細められているのだろう。……昔のように。
「私はあなたの『あの方』ではありませんが、私ならきっとこう思うでしょう。……私が近くにいることで、この子が危険にさらされてしまうかもしれない。それならばいっそ、離れてしまえ、と――」
 そこまで言って、彼は笑みを消した。
「……いえ、言っても栓なきことですね。私はあなたの『あの人』ではないのですから」
「いいえ。私のことを思いやってくださったのですね。ありがとうございます、お優しいお方。……あなたの、女の子は?」
 彼はもう一度、笑った。今度は痛みをこらえるような笑い方で。
「……私の女の子は、遠いところへ行ってしまいました。私を一人、置き去りにして。私はあの子を守ると誓ったのに、守ってあげることができなかった……」
「……申し訳ありません。立ち入ったことを聞いてしまいましたわ」
 ――『遠いところへ行ってしまった』ということは。その子は、すでに……
 その『女の子』とは、誰なのか。……ちくり、と心が針で刺されたかのように痛む。
「いえ……私がこの話をしたのは、あなたが初めてなのです。……こうして話せるようになったということは、少しでも私が前に進んでいるという証なのでしょうか……」
 ふ、と柔らかな笑みを浮かべた後、彼は一切その話題に触れなかった。アメジストも同じくだ。
 たわいもない話をしていると、つい、と二人の前にぶどう酒のグラスが置かれた。
 視線を上げると、明るいはしばみ色の髪の女性が妖艶な笑みを浮かべていた。
「先ほどからずいぶんと込み入ったお話をされているご様子。さぞかし喉が渇いていらっしゃることでしょう。どうぞ、私の好意を受け取ってくださいな」
 やや低めの女性の声を聞いた瞬間、奇妙な感覚に襲われた。どこかで聞いたような、懐かしい声――

 ――目を見るな。何か言われても、聞き流せ。

 不意にクロウの言葉がよみがえり、我に返る。
 目を瞬くと、女性はすでに背中を向けて歩き去って行くところだった。
 アメジストはグラスに視線を注ぐ。そこには赤いぶどう酒がなみなみと注がれている。
 赤い、あかい。まるで、先ほどの彼女の妖艶な紅のような――血の色のような。
 確かに喉は渇いていた。アメジストはまるで吸い寄せられるようにそのグラスに手を伸ばし、口にしようとした瞬間。

 ――かしゃん。

 乾いた音が当たりに響いた。遅れてどろり、と血のようなぶどう酒がテーブルクロスにこぼれ、しみを作った。
 そこで初めて、アメジストは自分の持ったグラスが目の前の彼に払われて、取り落としたのだと気づいた。
 ちらりとリチャードの方を見ると(彼に対しては申し訳ないが、実は今まで彼の存在は意識の外にあった)、ひどくあせった顔をしている。
 もう一度目の前の彼に視線を戻すと、彼も自分の行動に戸惑っているようだった。しみのついたテーブルクロスと砕けたグラス、それから自分の手を凝視している。
 彼はじっと自分を見つめるアメジストの視線に気づいたらしい。あわてたように微笑を浮かべた。
「……失礼いたしました。グラスに羽虫が止まっているものが見えたもので」
「まあ……」
 アメジストは口元に手をやった。
「ありがとうございます。無意識に小さな命を奪わずにすんで、ほっといたしましたわ」
「本当に失礼を。……今、代わりのものを持ってまいりますので、少しお待ちいただけますか」
「いいえ。お名残惜しいですけれど、私これで失礼させていただきますわ」
 心から残念そうにアメジストが頭を下げると、彼はそうですか、と返した。
「それでは、仕方ありませんね。……今宵の出来事はうたかたの夢ですが、もしまたお会いできたなら。そのときは非礼をお詫びさせてください」
 彼はアメジストがリチャードを連れて会場を出て行くまで、じっとその後姿を見つめていた。

「陛下……無茶をなさらないでください」
 会場を出た瞬間、リチャードはアメジストに苦言を呈した。
「なぜ杯を干そうとなさったのです。毒でも入っていたらどうするおつもりだったんですか。心の臓が止まるかと思いましたよ」
 二人で廊下を歩きながら、アメジストは答える。
「私を殺したいのならば、あの場ではまずいわ。杯を干した後すぐに私が倒れてしまっては、いくら仮面舞踏会とは言えど捜査が入るし、そうしたらあの人に一番の疑惑がかかってしまうもの。だとしたら、たとえ致死毒が入っていたとしてもそれは遅効性のもの。であれば、どうとでもなるわよ」
 アメジストは、王族に連なる身の常として、あらゆる毒に耐性をつける訓練を受けている。もちろんあまりに劇的な効果のある毒薬、たとえば即効性の致死毒などには耐性がないが、一般民より毒に対して耐性があるのは確かだ。どうしても気になるのであればクロウかサジタリウスに解毒の術をかけてもらえばことは済む。
「……でも、やっぱり分からない。あの人の考えが……」
 少しの間うつむいて進むアメジストを、隣で心配そうにリチャードが見つめる。
「……ごめんなさいね、リチャード。大丈夫よ。念のため、後でサジ様あたりに解毒の術をかけてもらうわ」
 そう言ってアメジストがリチャードに笑顔を向けると、リチャードは胃を押さえつつ「そうしてください」と言った。


 彼女(正確には彼女とその連れ)が去った後、彼はふう、とため息をついた。
 その合図ですっ、と斜め後ろに人が寄り添った。
「……ロビン」
 周りに聞こえぬよう、低く抑えた声。
 彼が発した声は、先ほどの彼女に対しての声とはまるで違う。
「はい、お側に」
 ロビンと呼ばれた『はしばみ色の髪の女性』は答える。
 だがロビンの主君である彼は背中を向けたまま、静かにたずねた。
「私は、いつあの娘を殺せ、と命じた」
「はっ……?」
 予想もしない主君の言葉に絶句したロビンは、重ねての「いつ、どこで、私はお前にあの娘を殺せと命じた?」の問いにうろたえた。
「私には覚えがない。だがもしお前にそういった命令を出していたならば、それは撤回しよう。……さあ、答えよ」
「……いいえ。殺せとは……」
 歯切れ悪くロビンが答えると、彼はふう、と今度は呆れのため息をついた。
「……二度と、私の命じたことに背くな。あの娘は生きたまま、私の前に連れてくるのだ。いいな」
 ぞっとするほどの底冷える声に、冷や汗が伝う。
 ぶるりと身を震わせて、ロビンはようやっとはい、と答えたのであった。
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