帝国年代記〜催涙雨〜

モクジ

  Carmina Burana  

 いつもより早めの時間に、アメジストは目を覚ました。
 差し込む明かりから判断するに、まだ日が昇って間もないようだ。起き上がって、アメジストは今日の予定を頭の中に思い浮かべる。
 今日は確か、そんなに急ぎの執務はないはずだ。せっかく早く起きたのだから、昨日の残りの書類の決裁を朝食の前に済ませてしまおう。
 アメジストは顔を洗い、髪を梳かして着替え、大きな姿見の前で服にしわなどがないか確認する。
 よし、大丈夫。
 アメジストは一つうなずいて、寝室を出て、私室を出た、瞬間。
「……っ!」
 ああ、このとき悲鳴を上げなかった自分を褒めてやりたい。後ほどアメジストはそう、しみじみ思った。
「姫。ずいぶんとお早いお目覚めですね。もしや眠れませんでしたか?」
 まだ日の出間もないというのに、早番の侍女たちもまだ働きはじめであろう時間なのに、アメジストにさわやかな笑顔を向ける、その人は。
「……ゲオルグ王子……」
「おはようございます、姫。朝も早いというのにあなたの美しさはまさに……」
「お、おはようございますゲオルグ王子」
 そのままにしていると何を言い出すやら分からないので、とにかく挨拶を返す。
「以前、私のことはゲオルグとお呼びください、と申し上げました」
「あ、は、ええと、それは、その……ところで、ゲオルグ王子?」
「はい、姫」
 にっこりと笑うゲオルグを目の前にして、アメジストは懸命に頭を働かせる。
「……なぜ、ここにいらっしゃるのですか?」
「それは、私は姫の直属近衛ですから。姫にいただいたこの十字石にかけても、いついかなるときにも姫のおそばにいなければ、と」
 あああ直属近衛とはそういう意味ではありませんー! と言えたらどんなにか楽だろう。
 しかしゲオルグは直属近衛であると同時に、カンバーランドから預かった大事な『客人』でもあるのだ。めったな対応はできない。お互いの国のためにも。
 ひきつった笑みを浮かべて、アメジストは慎重に言葉を選ぶ。
「ええっと、ですね……直属近衛と言っても、常に私のそばにいなければならないわけではなくて、ですね……」
「いいえ、姫の御身に何かがあってからでは遅いのです」
「あの、ええ……ほ、ほら、他の直属近衛は、まだ、ほら」
「家庭を持っている者はともかく、あの男には直属近衛という自覚がまったくないようですね。後で厳しく言わねばなりません」
 いえそういうことではないんですー! アメジストは内心頭を抱えた。
 同じ言葉を話しているはずなのに、どうしてこうかみ合わないのだろうか。ゲオルグに悪意はまったくなく、むしろ純粋な善意でやっているのが分かるからこそ、逆に扱いに困る。
 ひきつった笑顔のまま、アメジストはどうしようと必死で思考をめぐらせる。
「ええと……ゲオルグ王子。別に今は、遠征に出ているわけではないのですから、大丈夫です」
「いえ、万が一ということもあります。姫にもしものことがあれば私は何を支えに生きていけばいいか、分からなくなってしまいます」
「で、ですから、その……あの、お気持ちは、ええ、大変うれしいのですが。帝国の兵士たちもそれなりの腕です。彼らも信用してください」
 懸命に説明すると、ゲオルグも分かってくれたようだった。少し眉をあげ、そうですね、と答える。
「では、執務室までお供いたしましょう」
 ……ゲオルグ王子って、こんな方だったかしら。
 アメジストはこっそり、ため息をついた。


 その話をしたとたん、その女性はころころと笑った。
「あの……笑い事ではないのですが……」
「こ、これは失礼を。……で、ですが、その……ぷふっ、あはははは……!」
 笑いをこらえようとしたのが、かえってつぼに入ってしまったらしい。その女性は本格的に腹を抱えて笑い出した。
 桃色の髪に翡翠の目を持つ、この女性の名はオニキス。アメジストの母である焔姫に仕えていた侍女であると同時に優秀な術研究員であり、そして『あの』サジタリウスの妻である。
 ちなみに、朝はゲオルグが私室の外で出迎え、どこかへ気分転換にと執務室を出ようものならすかさずお供、執務終了後は私室まで……という状態が続いている。どうにか断りたいのだが、変に会話がかみ合わず(偶然やりとりを見ていたシーシアスに同情されたほどだ)、それもここ数日のアメジストの悩みの種のひとつである。
 ようやく笑いの発作がおさまったらしい。オニキスは出されていた茶でひとまずのどを潤した。
「お気持ちがないのなら、はっきりと申し上げることも誠意とは思うのですが、いかがでしょうか」
「……それは、もう、お話しているのですが……」
「あら。では、そのゲオルグ様はいつか陛下を振り向かせてみせる、と思ってらっしゃるということですわね。そうですねえ……客観的に見て身分も問題ありませんし、お二人が結婚することで、カンバーランドとバレンヌの結びつきは、今よりももっと強固なものとなるでしょうね。カンバーランドにも、ただ帝国の植民地とするわけではない、ということも示せますから、一石二鳥の手かと愚考いたしますが」
「うう……」
 アメジストは頭を抱えた。
 理屈では分かっているのだ。戦略的に見ればまったく問題ない、どころかいいことづくめであるということも。だがアメジストは今は結婚よりもバレンヌを発展させたい思いの方が強い。
 成り行きはともかく、カンバーランドの施策を見てきて、いいと思ったところはバレンヌに導入しようと考えているのだ。そう、たとえばこの目の前の女性の待遇とか。
 彼女は今、昼から大体夕方になる前までの勤務をしている。オニキスは研究員として優秀であり、術研究に欠かせない。だが幼い子を抱えている関係上、他の術士たちと同様の勤務はできないので、特例かつ試験的に勤務時間を短くしているのだ。
 これでいい結果が出れば、順次他の既婚の女性兵士や侍女たちにも適用していく予定である。
「うふふ、見たところ、陛下のお心は別の方にあるようですわね」
 オニキスの言葉に、アメジストの脳裏をふっと茶に近い金と緑の色彩がよぎった。
 ちょっと待て、今誰を思い浮かべようとした。あわててアメジストは頭を振る。
「そ、それはもういいです!……それで、オニキス様?」
 アメジストの方から振っておいてなんだが、これ以上切り込まれると本気で逃げ出したくなってくる。アメジストは無理やり話題を変えた。
 オニキスはくすくす笑いながらも、話題の変更にのってくれた。
「はい。陛下のご厚情により、ほぼつつがなく過ごせておりますわ。ただ……」
 オニキスは少し顔を曇らせた。
「アレクが健康であれば、問題はありません。ですが、やはり幼子ですし、朝は元気でいても突然に熱を出すなど体調を崩したり、転んで怪我をするなども頻繁ですから、その点は少し、困ってしまいますわね」
 アレクとは、サジタリウスとオニキスの間に産まれた子で、正式な名前はアレクサンドルという。ティファールにある宝石鉱山の特産品、アレキサンドライトにちなんだらしい。母親譲りの桃色の髪を持つ、かわいらしい顔をした男の子だ。
「やはりそうですか……」
 子どもに大人の都合は通じない。分かっていたつもりだったが、やはりまだまだ詰める必要があるようだ。
「私たちの場合は、最悪使用人がおりますので何とかなります。ですが、市井の人間ではこうは参りません。子どもが体調を崩した際も、安心して預けられる場所があればよいのですが……」
「そうなると、お医者様か薬師に常駐してもらう、もしくは非常勤でもすぐに連絡が取れる体制の場所が必要になりますね……」
「はい。それに通常勤務を行うならば、子どもの年齢や月齢によってはお昼寝やおむつが必要だったり、子どもの食事も……そもそも母乳なのか離乳食なのか、それとも大人と同じ食事でいいのか。親が持たせるのかこちらで用意するのか。またおやつの有無も考えなくてはいけません」
「ああ……確かに、そうですね」
「ええ。それに子どもというのは思いもよらぬ行動をするものです。それも考慮いたしますと、手が空いていれば誰でもよいというわけにも参りません。実際に子どもを育てたことのある人間か、もしくは子どもについてある程度の教育を受けさせる必要があると思いますわ」
 ふむ、とアメジストは考え込んだ。ある程度は想定していたが、やはり実際に子どもを育てている人間の視座は貴重だ。アメジストでは考え付かなかったようなことを教えてくれる。
「オニキス様、貴重なご意見ありがとうございます」
「いいえ。陛下のお役に立てたのならば、幸いですわ」
 にこりとオニキスは笑って、執務室を出て行った。
ススム | モクジ

-Powered by 小説HTMLの小人さん-