帝国年代記〜催涙雨〜

アメジストVer. | モクジ

  月に踊れば  

 日課にしている修練を終え、外套をひっかけたジェイスンは昂ぶった神経を鎮める目的もあり、いつもより遠回りしていた。
 宮殿のはずれにあるこの静かな森が、ジェイスンは好きだ。どことなく育った森を思い出すからかもしれない。
 もう日も落ちた。柔らかな月明かりが支配する中、宮殿からの光も、この森には届かない。
 だが真っ暗であるはずの森の中に、ほのかに明るい場所があった。
「……?」
 不思議に思ったジェイスンは、誘われるようにそちらの方角へ向かう。
 やがて少し開けた場所に出て、そこにあったものは、こじんまりとした教会だった。
 ――こんなところに教会?
 ジェイスンは首をひねる。確かにバレンヌは精霊信仰が主だが、同時に他宗教に寛大だ。だからこそ一神教の国であるカンバーランドと親交を深めていられたともいえる。
 だがこんな宮殿のそばに教会があるなど、初めて知った。
 ホーリーオーダーたちが帝国軍に入ることになった以上、彼らのための教会が建てられていることは知っている。彼らは敬虔な神の使徒であり、神に祈るための場所である教会は欠かせない。ジェイスンにとっては単にことあるごとに祈っているだけにしか見えないのだが、きっとそれにも彼らなりの理由があるのだろう。
 だが目の前の教会には真新しい感じがしない。建てられてから少なくとも数年は経っているだろう。そしてわずかな明かりはその建物から漏れている。
 ジェイスンは少し考え、ままよと扉を開けた。
 するとそこには、小さな一人の影が立ち尽くしていた。
 気配を消して近づくと、窓から入る月の光に照らされたその影は、アメジストだった。
 本来であればひざまずき頭を垂れて祈りを捧げるのであろうが、彼女は立ち尽くし、天に顔を向け、目を閉じて胸元で手を組み、ひたすら何かを祈っている。
 なんとなく声をかけづらくてじっと見つめていると、アメジストは祈りをやめ、ふいっとこっちを向いた。
「きゃっ!」
 後ろにいた存在に気づいたアメジストは悲鳴をあげ、一歩後ろに後ずさる。その顔は驚きと――未知のものへの恐怖に彩られていた。
 彼女からは影になって見えないのか、とあたりをつけ、一歩前に進む。そうするとアメジストはようやくほっとした顔をした。
「……び、びっくりしたー……もう。いるのなら声をかけてちょうだい。驚いたじゃないの」
「……すみません。こっちもこんなところに人がいるなんて、思いもしなかったものですから」
「私もあなたがいつの間にか後ろにいるなんて、思いもしなかったわよ。……本当はここ一帯、私の一族以外は皇帝と、次期皇帝しか立ち入っちゃいけないところなのよ?」
「そうなんですか?」
 それは初耳だ。今まで結構この森の辺りをうろついていたが、咎められた記憶はない。たまたま人がいないときを選んでいたからなのかもしれないが。
「そうなのよ。ここからちょっと進んだところに……」
 アメジストの指がある方向を指す。
「清めの塔、って呼ばれているところがあってね。そこが伝承法を伝える場所なの。そこは代々、ブルースター家の人間が管理しているのだけれど、ライブラがいなくなって、母様がいなくなって。姫巫女である私が皇帝になっちゃったから、今はあまり、意味がないわね」
「……そんな機密、俺にもらしてもいいんですか」
「あら。だってあなたは、吹聴して回ったりしないもの。ねえ?」
 ふふ、と笑ってアメジストは神の御像に向き直る。
「……ここ。他と比べて、古いでしょう?」
「……そうですね。ホーリーオーダーのために新しく建てた教会ではないでしょう」
「そうなの。ここはね、私とゲオルグ王子との婚約が整ったときに、建てられたものなの」
 アメジストは神の御像の、服のすそに当たる部分に触れる。
「私がカンバーランドに行って恥をかかないように。ちゃんとカンバーランドのやりかたになじめるように。そう言われて、建ててもらったのだけれど」
 そこでアメジストはくすくすと笑った。
「やっぱり、本物の国には敵わないのよね。実際行ってみたら笑っちゃうくらい、こっちとぜんぜん違うのだもの。物事の考え方、立ち居振る舞い……私、一生懸命がんばった。けれど、あまり意味がなかったみたい。いつも、影でこそこそ、笑われていたから……」
 寂しそうにアメジストがつぶやく。
 なぜか彼女がそのまま月の光に溶けて消えてしまいそうな気がして、思わずジェイスンは手を伸ばす。
「ねえ、ジェイスン。踊らない?」
 くるりと振り返った彼女はそう言って笑った。
「……俺は踊りなんかできませんよ」
 とっさに手を引っ込めて、何とか声を絞り出す。
「あら、そうなの? 旅芸人の一座にいたって言ってたじゃない」
「用心棒として雇われていたんです。一座の一員としていたわけじゃない」
「あんなに素敵な歌を歌えるのに?」
「は?」
「覚えていないの? 前に……年明けの宴のとき。歌ってくれたじゃない」
「……ああ」
 確かに歌った。だがそれは不穏な空気を変えようととっさに思いついただけのことだ。
「愛を捧げる歌。私は知らなかったけれど、きっと城下の人たちはその曲が当たり前に聞けるのね。本当に素敵な歌だったわ。……あなたにそんな歌を捧げられる女の子は、幸せね」
 皇帝たる彼女に捧げるには、あまりにも稚拙な技術のそれ。
 けれど彼女は、それを『素敵だ』と言ってくれる。
「詩を覚えているのがその曲だけだったんですよ。あれは旋律も簡単ですし――」
「もう一度歌って、って言ったら、怒る?」
 上目遣いで見つめられて、言葉に詰まる。
「……怒りはしませんが。勘弁してください。正直恥ずかしいです」
 あの歌は、男が一途にただ一人の娘に愛を告げる歌だ。

 ――どうか知っておいてください。私の想いを。あなただけを想う、届かぬひとに恋をした、哀れな男の心を。あなたに応えてもらえなくとも構わない、狂おしいまでの愛の言葉を、飾らぬ心からの言葉を。……あなたの、ためだけに。

 詩に込められた思いは、そう。ただ愚直に、命をかけて、娘に愛の言葉を贈るだけのもの。
 この曲は男声での独唱の上、音楽劇などの一部ではない。だから、娘側の……つまり男に愛を告げられてどうしたか、などの娘の心情が語られることはない。製作者の知られていないこの曲は、ただこの一曲だけで完成しているものとされていて、返歌に当たる歌もないのだ。
 そして彼女はおそらく気づいていない。この曲は『身分違いの恋』の歌だということを。
 詩の中で『花』にたとえられた娘は、本来ならば出会うことすら叶わない、高貴な姫。
 それを自分たちに当てはめるつもりはジェイスンにはまったくない。ないのだが、なんともいえない微妙な気持ちになることも確かだ。
 特に彼女への想いを、自覚してしまった今では。
「そう、残念だわ」
 アメジストは少しうつむいていたがすぐに顔を上げ、笑顔ですっと手を伸ばす。
「じゃあ、やっぱり、踊りましょう? 歌ってくれないのなら、そのくらいしてくれてもいいじゃない」
「ですから、俺は踊れませんって。一座の中でも踊るのは若い娘の仕事でしたから」
「あら。淑女からの誘いを断るの? 淑女に恥をかかせるだなんて、紳士としてそれはないのではないかしら」
 にこにこ笑いながら、アメジストは手を差し出し続ける。自分がその手を取るのを待っている。
「……紳士、なんてガラじゃないですよ、俺は」
「ふふ。私の手を取って、立っていてくれるだけでいいのよ。あなたの背の高さならば、それだけで映えるわ」
「映えるって。……誰も観客なんかいないのに」
「いいの。私が舞いたいだけなのだから」
 ――じゃあ手をとる必要なんかないんじゃないか?
 そう思いつつ、しかしそれももったいない気もして、ジェイスンはしばし逡巡する。
 ねえ? とかわいらしく急かされ、結局ジェイスンは彼女の手を取った。
 すると彼女は花のように笑い、くるりと回った。
 そしてジェイスンの知らない歌を口ずさみながら、くるくると舞い、いったんジェイスンの手を離し、「手は、そのままね?」と念を押し、彼女はまたくるくると舞う。
 月明かりに照らされ、ひらり、ひらりと彼女の動きにつられて舞う、服のすそがまるで本当に花のようで、ジェイスンは目を細めた。
「年明けの宴のときのような、踊りではないんですね」
 もう一度彼女が自分の手をとったとき、ふと気になってたずねる。
「ええ。あれは基本的に、男性がリードしてくれないと踊れないもの。これは私が母様に教えてもらった、歌と舞なの」
 いったん歌をやめ、ジェイスンの問いに答える彼女は、幸せそうに笑っている。
 ――この笑顔を、いつまでも見ていられたらいいのに。
 詮無いことをうっかり考え、あわててその思いを頭から追い出す。
 自分はただの傭兵なのだ。そう自分に言い聞かせる。
「ああ。こんなに舞ったのは久しぶりだわ」
 しばらく歌い、舞っていたアメジストがふいに舞をやめ、そう言った。
 少し息を弾ませながら、自分の手を取る彼女の頬はばら色に染まっている。
「楽しかった。ありがとう、ジェイスン。付き合ってくれて」
「……いいえ。俺もいいものを見せてもらいましたから」
「あら、ありがとう。このごろ舞っていなかったから、ちょっとつたなかったけれど。うれしいわ」
「舞っていなかった?」
「ええ。……私は、もう皇帝だから。軽々しく舞うわけにはいかなくなってしまったの。かといって一人になれるまとまった時間なんて、そうそうないし」
 アメジストはジェイスンから手を離し、くすくすと笑った。
「だからね、この舞と歌は、あなたしか知らないの。……私と、あなただけの、秘密。ね?」
「ひみ……」
 思わず言葉に詰まる。
 多分彼女に他意はない。わかっているのに振り回されている自分がどうしようもなく、馬鹿だと思う。
「……もう遅いです。そろそろ戻りましょう」
「あ、そうね。ジェシカに心配をかけてしまうわ」
 そして彼女はくしゅん、と小さくくしゃみをして身震いした。冷えてしまったらしい。
 ジェイスンはひっかけていた外套を外し、彼女を包むようにして着せ掛ける。
「風邪でも引いたら、大変でしょう」
「ありがとう。でも、あなたが寒いのではない?」
「俺は鍛えていますから。少しの間くらい、平気ですよ」
「そう? じゃあ遠慮なく借りるわね。……ふふ、なんだかちょっと照れくさいわね」
 頬を染めて、アメジストははにかむ。
 ――その頬の赤さは、さっきと違う意味にとってもいいのだろうか。
「……部屋まで送ります。一人では、危ないですから」
「ありがとう。じゃあ、お願いするわね」
 そう言ってアメジストはジェイスンの手を握った。
 ――俺はガキか。彼女に手を取ってもらえるだけで、うれしいだなんて。
 彼女を前にすると、ひどく調子が狂う。
 調子は狂ったけれど、こうも思った。

 ――どうか、部屋に着くまで。誰にも出会いませんように。
 ――この、ほんの少しの幸せな時間が、長く続きますように。


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