帝国年代記〜催涙雨〜

ジェイスンVer. | モクジ

  月に踊れば  

 夕食を終え、湯浴みをし、後はもう眠るだけとなり、ジェシカを始めとするアメジスト付きの女官たちがすべて退室したあと。
 アメジストはそっと部屋を抜け出し、とある場所へ向かった。
 外の空気は外套を通しても冷たく、白い息を吐きながらアメジストは歩みを進める。
 そしてたどり着いたのは、教会だった。
 そっと扉を開き、中に入る。
 気がついたときに掃除はしていたのだが、毎日来られるわけではないから、やはりどこか埃っぽかった。湯浴みをした後では掃除はできないから、多少申し訳なく思いながらもそのまま、神の御像の前まで歩き、立ち止まる。
 この神の御像だけは、変わらず自分を出迎えてくれる。
 ――私はあなたを無心で信じているわけではないけれど。だから、別に祝福をくれなくてもいい。
 ――ただ、祈らせてほしい。私のために。
 無論、冷たい石でできた神の御像からの返答はない。
 アメジストは神の御像を見上げ、胸元で手を祈りの形に組む。そのまま目を閉じて、静かに祈り始めた。

 どれくらい経っただろう。ふと寒さを覚えて、アメジストは目を開けた。
 ――今日はもう、おしまいにしましょう。
 そう思ってくるりと振り返った、瞬間。
「きゃっ!」
 薄暗い中に浮かび上がる誰かの姿にアメジストは悲鳴をあげ、一歩後ろに後ずさる。
 ――誰? まさか、刺客?
 いや、だとしたらなぜそこにいるだけなのか。その影は少しの間の後一歩こちらに踏み出し、するとようやくわずかな月の明かりに照らされてその正体が分かった。
 思いもしなかった、その闖入者は、よく見てみるとジェイスンだった。
 とたんに体から力が抜けていく。
「……び、びっくりしたー……もう。いるのなら声をかけてちょうだい。驚いたじゃないの」
「……すみません。こっちもこんなところに人がいるなんて、思いもしなかったものですから」
「私もあなたがいつの間にか後ろにいるなんて、思いもしなかったわよ。……本当はここ一帯、私の一族以外は皇帝と、次期皇帝しか立ち入っちゃいけないところなのよ?」
「そうなんですか?」
 初めて聞いた、とばかりにジェイスンは首を傾げる。
「そうなのよ。ここからちょっと進んだところに……」
 そう言ってアメジストはある方向を指さす。
「清めの塔、って呼ばれているところがあってね。そこが伝承法を伝える場所なの。そこは代々、ブルースター家の人間が管理しているのだけれど、ライブラがいなくなって、母様がいなくなって。姫巫女である私が皇帝になっちゃったから、今はあまり、意味がないわね」
「……そんな機密、俺にもらしてもいいんですか」
「あら。だってあなたは、吹聴して回ったりしないもの。ねえ?」
 ふふ、と笑ってアメジストは神の御像に向き直る。
「……ここ。他と比べて、古いでしょう?」
「……そうですね。ホーリーオーダーのために新しく建てた教会ではないでしょう」
「そうなの。ここはね、私とゲオルグ王子との婚約が整ったときに、建てられたものなの」
 アメジストは神の御像の、服のすそに当たる部分に触れる。
「私がカンバーランドに行って恥をかかないように。ちゃんとカンバーランドのやりかたになじめるように。そう言われて、建ててもらったのだけれど」
 そこでアメジストはくすくすと笑った。
「やっぱり、本物の国には敵わないのよね。実際行ってみたら笑っちゃうくらい、こっちとぜんぜん違うのだもの。物事の考え方、立ち居振る舞い……私、一生懸命がんばった。けれど、あまり意味がなかったみたい。いつも、影でこそこそ、笑われていたから……」

 ――まあ。こんなこともご存じなかったのですか?……あら失礼を。遠くの国からいらしたのですもの、当然でしたわね。
 ――まったく。バレンヌとはいったいどういう教育をなさっているのでしょうか? まるで未開の土地の民のよう……あら、いいえ。姫様に言っているわけではございませんのよ。お気に障られたのなら、ごめんあそばせ。

 ――今回いらした、ゲオルグ王子のご婚約者。この国のしきたりすら、ご存じないのよ。
 ――まあ。それでは王子にふさわしくないのでは?
 ――ソフィア王女のように、類まれな美貌や術才をお持ちというわけでもないようですし……
 ――その程度で『王の宝石』の名を持つだなんて。ずいぶんと名前負けなさる方ですのね。
 ――姫様の母君は『現実』というものをご存知でなかったのね。さすが結婚もせずに子を生したお方。いろいろとおかわいそうなのね。
 ――どうせ、形だけの正妃でしょう。王子があのような小さなお嬢さんを、本気でお相手になさるはずがないものね。
 ――ハロルド様でさえ、三人の正妃を持たれた。わたくしたちにも、機会があるのではなくて……

 くすくす、と笑われる。呆れと悪意を込めた笑い。
 正面切って、堂々と笑い飛ばされるならまだ我慢できた。ソフィア王女もトーマ王子も味方になってくれていたのだし。だが影でこそこそと、でも聞こえよがしに言われる悪口は、特に母への悪口は、ことのほか堪えた。

 ――仕方がないじゃない。私、まだ十歳かそこらだったのよ。しかも、生まれ育った国ではないのに。分からないことがいっぱいあったって、当然だわ。だからどうしたらいいのか、聞いていたのに。
 そう思えるようになったのも、そう遠い昔の話ではない。
 しかし、その中でも、一番ひどく堪えたのは。

 ――ならば婚約は私とではなく、トーマとなされればいい。トーマとならば歳も見合うし、仲も良いようだ。問題ないでしょう。
 ――姫。私は忙しいのです。あなたのために時間を割いている暇などないのです。

 多分本人は、そんなことを言っただなんて、覚えていないのだろうけれど。

「ねえ、ジェイスン。踊らない?」
 アメジストはともすれば暗くなりそうな思考を吹き飛ばすため、くるりと振り向きジェイスンに笑いかけた。
「……俺は踊りなんかできませんよ」
 ジェイスンは腕を頭にやった。その答えにアメジストはきょとんとする。
「あら、そうなの? 旅芸人の一座にいたって言ってたじゃない」
「用心棒として雇われていたんです。一座の一員としていたわけじゃない」
「あんなに素敵な歌を歌えるのに?」
「は?」
「覚えていないの? 前に……年明けの宴のとき。歌ってくれたじゃない」
「……ああ」
 ようやく思い出したような顔をして、ジェイスンはうなずいた。
「愛を捧げる歌。私は知らなかったけれど、きっと城下の人たちはその曲が当たり前に聞けるのね。本当に素敵な歌だったわ。……あなたにそんな歌を捧げられる女の子は、幸せね」
 素直にうらやましい、と思う。おそらく、自分には得られないであろう、期待することをあきらめてしまった、それを。
「詩を覚えているのがその曲だけだったんですよ。あれは旋律も簡単ですし――」
「もう一度歌って、って言ったら、怒る?」
 少しずるい言い方かしら、と思いながらも、どうしてももう一度聞いてみたくて、言ってみる。
 しかし、やはりジェイスンは渋面を作った。
「……怒りはしませんが。勘弁してください。正直恥ずかしいです」
 ――ああ、やっぱり。
 最初から期待はしていなかった。歌ってくれたらしめたもの、程度の言葉だった。だからがっかりもしなかった。
「そう、残念だわ」
 がっかりなど、しなかったはずだ。けれどジェイスンの顔を見ていられなくて、つかの間視線を下に向ける。
 だがすぐに笑顔を作って顔を上げ、すっと手を伸ばす。
「じゃあ、やっぱり、踊りましょう? 歌ってくれないのなら、そのくらいしてくれてもいいじゃない」
「ですから、俺は踊れませんって。一座の中でも踊るのは若い娘の仕事でしたから」
「あら。淑女からの誘いを断るの? 淑女に恥をかかせるだなんて、紳士としてそれはないのではないかしら」
 アメジストは手を差し出し続ける。
 この『お願い』を、ジェイスンは断らない。歌は断られたのに、なぜかそう思った。根拠もないのに。
「……紳士、なんてガラじゃないですよ、俺は」
「ふふ。私の手を取って、立っていてくれるだけでいいのよ。あなたの背の高さならば、それだけで映えるわ」
「映えるって。……誰も観客なんかいないのに」
「いいの。私が舞いたいだけなのだから」
 ジェイスンはしばらく困ったように自分を見つめていたが、アメジストが急かすようにねえ? とたずねると、彼は手を取ってくれた。
 とたんにうれしくなって、ジェイスンとつないだ手を支点にしてくるりと回った。
 自然と口から出てくる歌は、母からいろいろな歌と舞を教えてもらった中でも、唯一の。

 ――エオス。これはの、恋の歌じゃ。たとえわが身が不幸になったとて構わぬと思うほどに好いた殿方のために、舞うのじゃぞ。

 ――黙っていれば、分からないわ。この舞の意味なんて。
 そう開き直って、歌い、舞う。
 いったんつないだ手を離し、「手は、そのままね?」と念を押して、くるくると舞う。
「年明けの宴のときのような、踊りではないんですね」
 もう一度ジェイスンの手をとったとき、ジェイスンが不思議そうに聞いてきた。
「ええ。あれは基本的に、男性がリードしてくれないと踊れないもの。これは私が母様に教えてもらった、歌と舞なの」
 いったん歌をやめ、ジェイスンの問いに答える。
 それ以上、ジェイスンは問いかけてはこなかった。ただ黙って、自分が歌い、舞うのを見ていてくれる。
「ああ。こんなに舞ったのは久しぶりだわ」
 しばらく歌い、舞っていたアメジストは舞をやめ、思わずつぶやいた。
「楽しかった。ありがとう、ジェイスン。付き合ってくれて」
「……いいえ。俺もいいものを見せてもらいましたから」
「あら、ありがとう。このごろ舞っていなかったから、ちょっとつたなかったけれど。うれしいわ」
「舞っていなかった?」
「ええ。……私は、もう皇帝だから。軽々しく舞うわけにはいかなくなってしまったの。かといって一人になれるまとまった時間なんて、そうそうないし」
 アメジストはジェイスンから手を離し、くすくすと笑った。
「だからね、この舞と歌は、あなたしか知らないの。……私と、あなただけの、秘密。ね?」
「ひみ……」
 なんとも言いがたい複雑な表情になったジェイスンに、少しだけしてやったり、と思う。
「……もう遅いです。そろそろ戻りましょう」
 しばらく複雑な表情をしていたジェイスンは、気を取り直したようにそう言った。
「あ、そうね。ジェシカに心配をかけてしまうわ」
 ジェシカをはじめとした自分付きの女官たちは下がったが、ジェシカはたまにちゃんと自分が休んでいるかどうか、確認を取ることがある。もし不在が知られれば、大騒ぎになるかもしれない。
 不意に寒さを感じ、くしゅん、とくしゃみをして身震いする。
 久々に舞って先ほどまでは暑いくらいだったのに、汗が冷えたのだろうか、寒くなってしまった。
 体を抱きしめるように両腕を交差させたら、いきなりばさり、と何かがかぶせられる。
「風邪でも引いたら、大変でしょう」
 ぬくぬくと温かいそれは、ジェイスンの外套だった。
「ありがとう。でも、あなたが寒いのではない?」
「俺は鍛えていますから。少しの間くらい、平気ですよ」
「そう? じゃあ遠慮なく借りるわね。……ふふ、なんだかちょっと照れくさいわね」
 ――まるで、ジェイスンに抱きしめてもらっているみたい。
 ちょっとだけくすぐったくなって、アメジストは笑った。
「……部屋まで送ります。一人では、危ないですから」
「ありがとう。じゃあ、お願いするわね」
 そう言ってアメジストはジェイスンの手を握った。
 少しだけジェイスンの手が硬直して、でも振り払いはせずに、そのままぎゅっと握ってくれた。
 そうして歩き出したアメジストは、こう思った。

 ――どうか、部屋に着くまで。誰にも出会いませんように。
 ――この、ほんの少しの幸せな時間が、長く続きますように。


ジェイスンVer. | モクジ

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