帝国年代記〜催涙雨〜

モクジ

  闇に蠢くもの  

 月のない闇夜。
 明かりもない純粋な闇の中進むその足に、迷いはまったく見えない。
 アバロンを出てしばらく進んで――彼はようやく、待ち合わせ場所にたどり着いた。
「……待たせたか?」
 その場所には、すでに待ち人が来ていた。
「いんや、今さっき来たとこだよ。俺も意外と忙しいんでな」
 そう言って明かりを持った彼はにかっと笑った。やわらかな風がその顔をなでていく。
「そうか。例のものは?」
「できてるよ。ほれ」
 オレンジ色のキャプテンハットを被ったその男――エンリケはその手でもてあそんでいた物体をぽい、と彼に放る。
「ちゃんと嬢ちゃんの力で扱えるようにしといた。杖の上部をひねると刀身が出せるようになる。できるだけ嬢ちゃんに合わせて可愛らしくしてやりたかったんだがな、そうすっと強度が犠牲になるから。その辺は勘弁してくれよ?……赤茶の髪のナイトさんよ」
「俺の名前はクロウだ、と、以前言ったはずだが?」
 そういいつつ、クロウの目は忙しく仕込み杖の具合を確かめている。
「まぁ確かにそうだが」
 エンリケはクロウを不思議そうに眺めた。
「そもそもおめぇ、なんでそんな嬢ちゃんに執着すんだ? 別に嬢ちゃんを女として見てて、いつか抱きてぇとか思ってるわけでもねーだろ」
「な――」
 思いもしなかったその言葉にクロウは顔を上げる。アメジストを女として……つまり『そういう』対象として見てる、だと?
 そんな馬鹿な。あまりのありえなさに二の句が告げない。そもそもアメジストだって自分を男として見ているはずがないのだ。
「そ、そんな下卑た思考は持っていない! それに軽々しく『嬢ちゃん』なんて呼ぶな!」
「なんでぇ、カンバーランドの王子様みてぇなこと言いやがって。んじゃあ聞くが、おめぇ俺が嬢ちゃんのこと名前呼びしてもいいのかよ?」
 クロウはとっさに言葉を返せなかった。だが不快感をうっかり顔に出してしまっていたらしく、エンリケが大笑いした。
「あーっはっはっは、ぜってぇに許さねーって顔してら。嬢ちゃんを名前呼びしていいのは自分だけ、ってか?」
「……うるさい。普通に『陛下』と呼べばいいだろう」
「あームリムリ、もームリ。矯正不可能。まー公式の場ではちゃーんとそう呼んでやっから、心配すんな。あんま細けぇこと気にしてっと、胃に穴開くぜぇ?」
 いくら正式な帝国軍人ではないとはいえ、エンリケにとってアメジストは上司にあたるはずなのに。こいつはなんでこんなに偉そうなんだ。そして誰のせいだ。クロウは思い切り眉をひそめる。
「……ま、おめぇがなんでそこまで嬢ちゃんに執着するんかは知らねーが。年長者としてひとつだけ、忠告してやろう。あんまり嬢ちゃんを縛り付けんな」
 へらへらとしたエンリケの声音が、最後だけ真剣味を帯びた。
「……なんだと?」
 クロウはすっと表情を消してエンリケをにらみつけるが、エンリケはふふんと鼻で笑ってクロウに指を突きつけた。
「分かってねーとは言わせねーぞ。おめぇがどんだけ嬢ちゃんに執着しようがそりゃおめぇの勝手だがな。ただでさえ今はカンバーランドの扱いをどうすっかって問題もあんだ。嬢ちゃんは期待に精一杯応えようとする気性だからな、下手したら……潰れる」
「そんなことをお前に言われる筋合いはない!」
 低く叫んだ瞬間、それに呼応するように風が巻いた。クロウは一瞬目を見張り、あわてて目を伏せた。エンリケから目をそらすように。
 同時に風がふっと今までの優しさを取り戻した。
「……いや。すまない。確かにそうだ。俺は……あいつを縛り付けてる……」
 今の自分に後悔はない。後悔はないが、もっとうまいやり方があったのではないかと今では思う。
 もっとうまくやれていたなら――アメジストは涙を流すこともなく、皇帝などというただ神経をすり減らすだけのような役に縛り付けることもなく。ただ一人の人間としての幸せを享受できていたのだろうか。
「ったく。なにもそんな思いつめることねーじゃねぇかよ。嬢ちゃんにもその傾向がちと見えるが……おめぇの影響かぁ?」
 エンリケは深くため息をついた。
「あんま細けぇこと気にすんなって言ったろ。いつもよりほんの少しだけ気ぃ遣ってやって、ちっとでも嬢ちゃんの負担減らしてやればいいんだよ。たとえば、あのカンバーランド王子様の対処とかな」
 言っとくが俺から見てもアレはかなりヤベェぞ、とエンリケは続けた。
「王子様にも王子様なりの事情や考えっつーのがあるんだろうけどよ。ありゃ誰がどー見たって行き過ぎだ。いくら元婚約者っつっても、嬢ちゃんはジェイスンが――あーいやいや、もう王子様にゃまったく気持ちがねぇみてーだしな。おめぇも表に出らんねぇ事情もあるんだろうが、ちっとばっかし釘刺しといたほうがいいんじゃねぇの?」
 ゲオルグの行動を、めったに宮殿にあがることのないエンリケでもそう思うということは、やはりクロウの考えすぎではなかったようだ。
 ジェイスンの時は姿を見せることもできたが、それは彼が後ろ盾のない、ただの『傭兵』だったからだ。帝国領になったとはいえ、ゲオルグがカンバーランドの王子であることに変わりはない。そしてすでに破棄されているとはいえ、アメジストの婚約者であったことも。
 カンバーランドはバレンヌと同様に、歴史のある国だ。内乱を収めてくれたからといっても、カンバーランドが帝国の一公国に成り下がったことをよく思わないものも、少なからずいる。身分的にはただの平民でしかないクロウが、下手にカンバーランド王子であるゲオルグの前に姿を見せ、その行動を咎めたならば。そしてそれが……ゲオルグの意向にかかわらず、カンバーランド側に伝わってしまったならば。それは帝国への不審を煽り、一歩間違えれば帝国内部で分裂を起こす。アメジストがゲオルグに最大限に気を遣っていることも、すべて水泡に帰してしまう。最悪、カンバーランドのように内乱に発展するかもしれない。
 だから今まで怒りを抑えて静観していたのだが――やはりエンリケの言うとおり、釘をさしておいたほうがいいだろう。そう結論付け、クロウは顔を上げた。
「世話になった。礼を言う」
「ま、こっちにも利益があったわけだしな。持ちつ持たれつ、ってやつだ」
 エンリケはひらひらと手を振り、くるりときびすを返した。クロウがどこに戻るのか、あえて知ることのないようにしているのだ。
 そのことに気づいたクロウは唇に笑みを浮かべ、ふわりと闇に溶け込むように、その場から姿を消した。


 後日、ゲオルグの元に、『月夜ばかりと思うなよ』というメモが残されることとなる。
 そしてそれが逆効果であったことに、クロウは頭を痛めることになったのであった。
モクジ

-Powered by 小説HTMLの小人さん-