帝国年代記〜催涙雨〜

モクジ

  感情の行方  

 自分は、彼女になにを求めているのだろうか。
 皇帝としての彼女か、それとも――


「やあ、珍しいですね。私とあなたがふたりきりの空間にいるなんて」
 その人はにこにこと笑顔を崩さずに――器用に唇だけで煙草を支え、煙をくゆらせる。
「……その言い方、誤解を招くからやめてくれ」
 ここは酒場だ。正確には二人ではなく、酒場の主人もいるのだが。基本的に主人は騒動が起きない限り客には深く立ち入らない。人ごみが嫌いなジェイスンはわざと混む時間をずらしているのだが、それでも誰かしらはいる。自分以外、客が一人しかいない今日は本当に珍しい。
 声をかけられているのにわざわざ遠くの席に座るのもおかしいので、とりあえず隣に座って主人に酒を注文すると、その人は首を傾げる。
「おや、そうですか?」
「あんたの同僚はお上品なやつらばっかなんだろうが、こっちは下世話な話好きの傭兵団なもんでね。うっかりそんなせりふ誰かに聞かれでもしたら尾ひれがびらっびらにつきまくるに決まってる」
「ああ、あなたが直属近衛に任命されたときも、幼女趣味という風評被害にあったんでしたっけね」
 嫌な記憶を掘り起こされてジェイスンがむっと黙り込む。てか、なんで知ってんだこいつ。
 ジェイスンはちょうど出された酒を一気に煽る。くっくっと笑いながらそのさまを見ていた青みがかった黒髪の宮廷魔術士――サジタリウスはいったん煙草を唇から外した。
 ジェイスンが二杯目の酒を注文する間に、彼はとんとん、と灰を灰皿に落とす。
「貴族社会というのも意外と下世話なものですよ。だれそれがどこぞの細君と火遊びしている、いや細君の方は本気のようだ、とかね。……あなたも吸いますか? 好みの味ではないかも知れませんが」
「いや。煙草は好きじゃない」
 ばっさり切り捨てたジェイスンに気を悪くする風もなく、サジタリウスは少し目を見開いた。
「意外ですね。傭兵といえば酒に煙草という印象が……ああ、気を悪くしたならすみません。ただ、傭兵の控え室からはいつも煙草と酒のにおいで充満していますから、つい、ね」
 ああ、でも医術の心得があるのなら、煙草は吸わないでしょうねえ。そう言ってサジタリウスはまた煙草をくわえる。
 つかの間、沈黙が下りた。
「……帰らないのか? 奥さんと子どもが待ってるんじゃないのか」
「その奥さんと子どもの前で煙草が吸えたものですか。冗談抜きに火球の術で燃やされてしまいますよ」
 つまり彼は煙草を吸うためだけにここに来たのか。確かに宮殿内で堂々と煙草が吸えるのは傭兵の控え室くらいなものだが――それにしてもわざわざ酒場まで足をのばしてくるとは。いまいち彼の考えは分からない。
「そういえば、陛下もあんたの奥さんのことを知ってるようだったが……奥さんも宮廷魔術士なのか?」
「おや、身辺調査ですか?……ふふ、まあそうですよ。職場恋愛と言えば、確かにそうなんでしょうねえ」
 どこまでも他人事のように楽しげにサジタリウスは笑う。
「どうしてそんなことを? 他人と一線引いているあなたが人の恋愛沙汰を問うなんて……雪でも降りますかね」
 まるでレグルスのようなことを言う。しかしサジタリウスはジェイスンの答えを待たず、目を細めた。
「恋愛のかたちなんて人それぞれ。私たちの場合は――そう、特殊、なのでしょうね」
「特殊?」
「だってあなた、そもそもお互いに一番大事な人がお互いでない時点でもうね」
 一番大事な人、は同じでしたけどね。とサジタリウスは付け加える。
「それに宮殿の屋根に登って意に沿わぬ殿方と無理やり結婚させられるくらいならここから飛び降りる、なんて脅されたら、そりゃあ言うことを聞くしかないでしょうよ。少なくとも私も彼女のことは嫌いではありませんでしたし、いくらなんでも同僚が飛び降り自殺するのを目撃するのはごめんです」
「飛び……」
 思わず言葉を失う。
「突飛な行動は焔姫……陛下の母君、で慣れていたとはいえ、さすがに度肝を抜かれましたよ。深窓の令嬢が宮殿の屋根に登って大騒ぎ、なんて。しまいにゃ自力で下りられなくなってましたからねえ。無理やり抱えて下ろしましたけど、さすがに成人女性を抱えて下りるのは骨が折れました」
「……あんたの奥さんは猫かなんかか?」
「猫。猫ですか。……ははは、これは言い得て妙。確かにそうですね」
 ひとしきり笑うと、サジタリウスは煙草を灰皿に押し付け、火を消した。
「あなたの気鬱の原因はゲオルグ王子、ですか?」
「……なんでそこにゲオルグ王子が出てくる?」
「見ていれば分かりますよ。あなたゲオルグ王子に敵視されていますからねえ。恋敵として」
「…………」
 ジェイスンは視線を泳がせた。
 サジタリウスはもう一本煙草を出し、吸っても? と目線で問いかける。
「吸いたいなら吸えばいい。別にオレは気にしない」
「では失礼して。……まあ、陛下も下手に気を持たせるような言動をするのもいけないのですけど……まだお若い陛下にそれを言うのは酷というものですね」
 サジタリウスは苦笑交じりに煙草に火をつけ、煙をくゆらせる。
 確かに彼女はゲオルグに気を使っている。ただし、ゲオルグの意図しない方向に。はたから見ていれば彼女がゲオルグの扱いにひどく困っているのはこれ以上ないほど分かるのだが、こいつは……彼女の兄弟子は、かわいい妹弟子に助けの手を差し伸べる気などさらさらないようだ。
「ゲオルグ王子は思い込んだら一直線の方のようですからね。よく言えば純粋なんでしょうけれど、あそこまで徹底的にやられるといっそすがすがしいものがありますが、正直言ってうっとうし――おっと失礼、つい本音が。……これは内緒でお願いしますね」
 まったくだ。何かにつけてゲオルグはジェイスンに絡んでくるのだ。だが彼の身分……建前は同じ直属近衛という立場だが、やはり一公国の王子とただの傭兵という関係ではあからさまに厭っているという態度を見せるわけにはいかず、かといって無視するわけにもいかず――ジェイスンにとってもうっとうしいことこの上ない。
「ゲオルグ王子はおそらく、不安なのでしょうね。陛下をあなたに取られるのではないかと。少なくとも陛下の周りにいる異性で特定の相手がいないのは、あなただけですし。それに年のころも自分と同じ、でも性格はまったく真逆。しかもカンバーランドを離れた後の陛下を知っている。おまけに陛下の信頼も得ているとくれば、ゲオルグ王子にとっては十分に焦る要因となりうるでしょうねえ」
「取るとかとられるとか……ったく、モノじゃねぇんだから」
「おや、そうきましたか。あなたのことですから興味ないとすっぱり切り捨てるかと思いましたが……そういう態度で来るということは、」
「知らねぇよ」
 サジタリウスの言葉をさえぎるように吐き捨てる。
 そんなことは知らない。あってはならない。相手はただの町娘ではない、この国を治める皇帝なのだ。
「あなたがあそこまで激昂するなんて、気になってしかたないと吹聴しているようなものと思いますがねぇ」
 その言い方にぐっと詰まる。サジタリウスが言っているのは、カンバーランドでの一件だ。間違ったことはしていないと思っているが、あれは確かにそう取られても仕方がない。
「……ふふ、まあ、そういうことにしておいてあげましょう。ですが私は結構お似合いだと思いますよ、ゲオルグ王子よりよほど」
「あんたは……陛下の相手が、たとえばシーシアスあたりでも反対はしないのか」
 言ってからしまったと思った。これではまるで、そのあってはならない感情を肯定しているようではないか。
 だが口からこぼれた言葉をいまさら戻せるわけもなく。サジタリウスは本当に面白そうに笑みを浮かべたが、ジェイスンに真意を尋ねることはしなかった。
「……そうですね。陛下が本気でシーシアスを愛しているとすれば、そして彼も陛下を愛しているとすれば。私は間違いなく、二人を結ぶべく力を尽くすでしょうね。妻も全力を尽くすと思いますよ」
「身分違いなのに」
「身分なんて関係ありませんよ。そも、身分違いというなら陛下が皇位を誰かしらにゆだねればいいだけの話です。もしくはシーシアスを適当な貴族の家に養子に入れるなりして、身分を上げるか」
 まあその場合、その後のシーシアスの頑張りにもよりますが、とサジタリウスは続ける。
「それでも、平民と公爵家の令嬢じゃ相当……それにあんたは、陛下が簡単に皇位を下りてもいいのか?」
「私は別に、陛下に皇帝であることを求めてはいませんので」
 陛下にいろいろ求めているあなたとは違ってね。という言葉がこめられていることに、ジェイスンは気づかないふりをした。
「陛下が愛に生きたいというならばそれもよし。これは「種を残す」という生物の根源にかかわることですし、誰に止められるものでもないでしょう」
 ふう、とサジタリウスは煙を吐いた。
「あなたももっと、自分の欲に素直になってもいいと思いますよ?」
「意味が分からない」
 努めて冷静にそう言うと、サジタリウスはものすごくかわいそうな子を見るような目でジェイスンを見た。
「……やれやれ、物分りが良すぎるというのも考え物ですねぇ。これでは進むものも進まない」
 だから違うというのに。ジェイスンはため息をついて一気に酒を流し込んだ。


 この感情は、いったい何なのだろうか。
 氷に閉じ込められた焔にも似た、この感情の持って行く場所が分からない。


 ただ、彼女を困らせるようなことだけはしたくない――彼はそう心の中でつぶやいて、かなりきつい、三杯目の酒を注文した。
モクジ

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